今回は「10·26事件」と呼ばれる朴正熙(パク·ジョンヒ)大統領の逝去をテーマにした2つの映画の歴史解説をするよ!この事件を学ぶと、みんなが気になる韓国の現代史と文化を理解しやすくなると思う!朴正熙大統領さえよく知っていれば、韓国現代史の50%は解決って言えるほど!
韓国人も1度で理解するのは難しいから、大まかに把握するだけでも、その後1980年代が背景の映画を観る時に知識が繋がる経験が出来るよ!韓国人が民主主義!民主主義!と叫ぶ理由を探してみよう。
この2つの映画は、1979年10月26日に起きた韓国の中央情報部長の金載圭(キム・ジェギュ/김재규)が大統領の朴正煕を殺害した「10・26事件」前後の話を映画にしたものだ。
『KCIA 南山の部長たち(남산의 부장들)』は10月26日以前の出来事と主な人物達の対立を通じて、情報部長の金載圭の心理の移り変わりを中心に話が展開され、『ユゴ 大統領有故(그때 그사람들)』は10月26日の当日の状況と朴正煕の死後、金載圭の行動に重点を置いており、2つの映画は全く違う面白みがある。
この2つの映画を通して、朴正煕は「なぜ殺されたのか」、「どうやって殺されたのか」、金載圭は「なぜ殺さなければならなかったのか」については詳しく分かるが、その背景や原因となる事件は、韓国史をよく知らないとどんな状況なのか理解しにくい部分が多いと思う。
前・中央情報部部長の金炯旭(キム·ヒョンウク/김형욱)は 、2つの映画の基礎背景になるから、『ユゴ 大統領有故』だけ観る場合も、事前にこの記事を読んでから観ることをおすすめする。
レベルA
中央情報部長の 金載圭と金炯旭
軍事政権時代には独裁に反対する民主化運動と、北朝鮮のスパイ勢力を統制・監視するために複数の公安担当部署の力が強かったが、ソウル南山にあった「中央情報部」はその中でも最も強力な核心機関だった。
国家の核心権力の中央情報部長は常に大統領の右腕であり、「韓国のナンバー2」と呼ばれる、非常に重要で力の強いポスト。映画『KCIA 南山の部長たち』の中のパク・ヨンガク(実際の人物は金炯旭)は第4代、キム・ギュピョン(実際の人物は金載圭)は第8代の中央情報部長だ。
韓国の歴史を変えた人だよ。金載圭は知っておかないといけない人物!
大統領警護室長 車智哲と陸英修 夫人
1968年1月、北朝鮮の特殊部隊31人が朴正熙大統領を暗殺しようと大統領府(青瓦台)のすぐ前まで侵入した「1·21事件」があり、1974年8月には朴正煕大統領の目の前で陸英修(ユク·ヨンス/육영수)夫人が在日韓国人のスパイが撃った銃に撃たれて死亡した事件があるほど、北朝鮮は常に脅威的であったから、当然、大統領警護室も非常に強い力を持っていた。
1974年、陸英修夫人暗殺事件で専任の警護室長が解任され、新たに任命された警護室長が映画の中の クァク・サンチョン室長(実際の人物は車智哲)だ。
朴正煕大統領が安家で若い女性たちとつるんでいるのは、夫人がいきなり亡くなったから悲しくて寂しかったからと弁明したり、無理やり美化する人たちもいて、映画の中の職員たちのセリフにもそういった表現が描かれている。
国家序列と職責上、中央情報部長が大統領警護室長より強い立場にあったけど、当時の金載圭部長は様々な事件によって朴正煕からの信頼を失いつつあり、ナンバー2の座を占めるために、車智哲警護室長が狂犬のように暴れていた時期だったから、当時2人の関係は非常に良くなかったの。
首相と国防部長官、陸軍参謀総長
大統領の逝去や緊急事態発生時、国務総理がその地位を代行することになるので、最も重要な人物として国務総理があげられる。また、国家の緊急事態を利用して軍部でクーデターを起こしたり、北朝鮮が侵攻したりする可能性もあるので、軍事指揮権を持つ国防部長官と陸軍参謀総長もまた、とても重要なポストである。
金載圭はその中で最も実質的な力を持っている陸軍参謀総長(軍をすぐに動員できるから)を夕食に招待し、隣の建物に待機させたが、この行動によって10・26事件は金載圭の計画された犯罪なのか、酒の勢いで起こった偶発的殺人なのかどうか、今でも多くの論議が起こっている。
宮廷洞安全家屋・秘密の場所
大統領府(青瓦台)入口のすぐ隣の宮井洞(クンジョンドン/궁정동)にあった安家で事件は起こるが、安全家屋は言葉どおり安全な家だ。 大統領府本館や執務室は不便だから、気楽に楽しむために、あるいは非公式や秘密保持が必要な場合によく使っていた。
大統領府の近くには宮井洞安家の他にも数軒の安家があり、酒と女性の他に賄賂をやり取りする時にもよく利用された。 宮井洞の場合、5軒の建物があったが、事件当日、陸軍参謀総長は他の建物で待機していたのだ。 もちろん、安全と警護のために安家は主に大統領府の近くにあり、高い塀を基本で、警備も厳しかった。
今では建物のほとんどがなくなって、宮井洞安家は公園として造成され、主に大統領府観覧に訪れた中国の団体観光客の待機場所として利用されているよ。
レベルB
コリアゲート事件(1976年-1978年)と第4代中央情報部長 金炯旭
【ここだけは押さえたい!おはるの簡単まとめ】
◎悪名高い金炯旭情報部長は、多くの不正を知っているが、朴正熙に捨てられた
◎朴正熙政府は、米国の国会議員を買収して摘発され、米国で聴聞会が開かれた
◎金炯旭は聴聞会で朴正熙を非難し、回顧録まで出版しようとした
◎韓国の情報部は何とかそれを防ごうとし、金炯旭はパリで行方不明になった
朴正煕政権の初期、第4代中央情報部長だった金炯旭は悪名高い「南山の恐怖」を作り出した当事者で、1960年代の韓国のあらゆる政治工作、反対派拉致、テロ事件などを主導したほど、朴正煕に一番忠誠心のある人物だったが、1970年代初めからは朴正煕に見捨てしまう。
裏切られたと感じた金炯旭はアメリカに亡命後、1977年、アメリカの「コリアゲート事件」聴聞会で朴正煕政権の恥部を公開告発し、朴正煕を激しく憤らせたため、金炯旭の口を塞ぐのが当時の中央情報部の急務であった。
当時、韓国政府は在韓米軍の撤退問題と朴正煕政権の人権弾圧問題のため、アメリカとの関係が非常に良くなかったが、これを揉み消そうと100人を超えるアメリカの国会議員に賄賂ロビーをしたのが1976年に暴露されたアメリカの「コリアゲート事件」で、この事件の調査のため、1977年にアメリカの国会で開かれた聴聞会が映画『KCIA 南山の部長たち』では40日前の話として登場する聴聞会だ。
朴正熙は結局、自分の恥部を記した回顧録まで公開しようとした金炯旭を除去することに決め、1979年10月1日にパリに到着した金炯旭は永遠に失踪してしまう。
釜馬抗争(1979.10.16)、 そして金泳三
【ここだけは押さえたい!おはるの簡単まとめ】
◎カツラ会社の廃業で発生した労働者のデモを強制鎮圧して死亡者発生
◎野党総裁の金泳三と民主党が政府を批判すると、金泳三を除名し、野党議員自ら辞退
◎金泳三総裁の故郷の釜山馬山地域で朴正熙政権最大のデモ発生
◎金載圭は穏健策、車智哲は強硬鎮圧の主張で衝突
◎全斗煥保安司令官が空輸部隊動員強制鎮圧 10·26事件の直接的な原因
◎10·26事件は12·12クーデターと5·18光州民主化運動につながる
2つの映画とも「釜馬抗争」、「釜山・馬山事態、デモ」という単語がセリフによく登場する。
ただでさえ仲が良くなかった金載圭と車智哲は、釜馬抗争に対する政府の対応の違いで大きく衝突し、ただでさえ朴正熙大統領の信頼を失いかけていた金載圭を朴正熙大統領と引き離した事件だからだ。
もしかしたら金載圭の心境の変化や最終決心に最も大きな影響を及ぼしたかもしれないこの事件は、1979年の夏、「YH貿易」というかつらメーカーから始まる。
会社は経営困難を理由に廃業する。しかし労働者らは偽装廃業だと主張し、廃業撤回を要求、デモに突入した。このデモ隊に野党第一党だった新民党(신민당)は、新民党本部を座り込みの場所として提供し、警察は彼らを強硬鎮圧して数人のデモ労働者が死亡した事件だ。
怒った金泳三(キム·ヨンサム/김영삼)新民党総裁は9月12日、米紙ニューヨークタイムズとのインタビューを通じ、アメリカ政府に「アメリカは朴正煕独裁政府と民主主義を望む韓国国民のうち1つを選択すること」、そして「非民主的な朴正煕政府に対するアメリカの援助を中断すること」を要求した。
当初、このデモの背後勢力は金泳三総裁だと考えた政府は、この要求を国家を裏切った事大主義発言と規定し、新民党内部の裏切り者、与党の共和党、そして裁判所を利用して、10月4日、金泳三総裁の国会議員職と野党総裁職から除名してしまう。
憲政史上初めて除名された金泳三はこの時、
닭의 모가지를 비틀어도 새벽은 온다
金泳三
(鶏の首をひねっても夜明けは来る)
という有名な声明文を発表し、10月13日、 金泳三の除名に抗議する新民党の国会議員66人全員と民主統一党の国会議員3人全員が国会議員辞職届を提出することになり、釜馬抗争の直接的な原因となる。
当時の金泳三の声:「どんなに鶏の首を捻っても夜明けは訪れると信じています。」
3日後の10月16日、金泳三の本拠地の釜山、馬山地域で始まった大規模な民主化運動である釜馬抗争は、朴正煕政権(18年間)下で行われたデモの中で最大規模の民主化デモであり、その数日後、10·26事件を通じて朴正煕政権を没落させ、半年後の5·18光州民主化運動の始発点になる事件だと言える。
当時、朴正煕は戒厳令を出し、全斗煥保安司令官が率いる空輸部隊を動員し、市民を強硬鎮圧し、数十、数百人の死者、行方不明者、負傷者を出した「元祖5.18民主化運動」とも呼べる大きな事件であったが、突然の朴正熙大統領の逝去と相次いで発生した12・12事態によって、歴史の中に葬られてしまった残念な事件だ。
小さな工場労働者たちの生存権要求デモがスノーボールになり、ある独裁者の死と新しい独裁者の登場までつながったのだ。
12・12事態(1979.12.12) 全斗煥とハナ会の登場
【ここだけは押さえたい!おはるの簡単まとめ】
◎10·26事件で朴正熙が死亡すると、全斗煥保安司令官が金載圭を捜査した
◎金載圭の背後に米国がいないことを確認した全斗煥が盧泰愚とともに12.12クーデターを起こす
◎軍事クーデターに反対する大規模デモが激しくなると、軍人を動員して多くの市民を殺す事件が5ヵ月後の5・18光州民主化運動
◎全斗煥大統領の任期が終わる頃、法を変えて任期を延長しようとして起きたデモが1987年の6月抗争
◎6月抗争で大統領を国民が直接選ぶことになったが、金泳三と金大中が争う間に盧泰愚大統領当選
朴正煕大統領が死去した後、憲法によって当時の国務総理の崔圭夏(チェ・ギュハ/최규하)がすぐに大統領権限代行となり、12月6日に正式に大統領になったが、10·26事件を捜査していた全斗煥(チョン·ドゥファン/전두환)が軍隊を動員し、武力で政府を掌握した軍事クーデターを「12·12事態」と呼ぶ。
10·26事件発生直後、捜査本部長を務めた全斗煥保安司令官は、自分に有利なように捜査結果を操作・編集し、混乱にあやかって政治にも勝手に関与するなど、専横を極めていたので悪い噂になっていた。
これを見るに見かねた鄭承和(チョン・スンファ/정승화)陸軍参謀総長と盧載鉉(ノ・ジェヒョン/노재현)国防部長官が、崔圭夏権限代行を早く正式な大統領にし(12月6日)、全斗換を閑職に発令しようとしたが、これに気づいた全斗換が自分の陸軍士官学校同期たちで出来た秘密私組織「ハナ会(하나회)」に所属している軍隊を動員し、12月12日に急いでクーデターを実行してしまう。
序盤は危機状況もあったが、中央情報部と大統領府警護室がすでに崩壊した状態だったため、権力の空白期だった韓国政府は、あまりにも簡単に全斗煥一味に権力を奪われてしまったのだ。
巧妙だった全斗煥は大統領の地位には就かず、崔圭夏大統領を操り人形として陰で操っていたので、この時からが実質的な第5共和国の始まりだと言える。
この過程を見守った国民のデモが、5・18民主化運動につながるが、すでに釜馬抗争を実際に鎮圧したことがある全斗煥の指示によって光州の悲劇が発生したのだ。
クーデターで始まった独裁者がいなくなると、新しいクーデターでまた別の独裁者が登場したことで、今後10年間、韓国民主主義の未来はさらに厳しい棘の道を歩むことになり、この時、参加した秘密私組織「ハナ会」のメンバーたちは、また別の永遠な独裁を夢見始める。
10・26事件に関する映画を観るための基本情報、いかかだったでしょうか?
次の記事の映画解説からは映画に沿って説明しているから、順番にゆっくり読んでいくと理解が深まるよ!ここまで読んでくれてありがとう!