今回は大韓帝国時代! 期間は短いけど、大変革の時期だから多くの事件が発生し、条約や会談の種類が多いよ。さらに、色んな国が登場して何か混乱するかもしれないけど、まずは日本がどのように大韓帝国の主権を奪ったかの流れだけでも、把握してみよう!
大韓帝国時代/대한제국(1897~1910)
日本の干渉
前の記事では朝鮮の終わり頃は、鎖国政策をとったけど、列強国の侵攻が相次ぎ、内政も不安定で自主性が失われていったってところまで解説したよ!
王妃が王宮で殺害されたにもかかわらず、抗議もできないほどだったし、朝鮮がどれほど力がなかったかが分かる事件が乙未事変だよㅠㅠ。
乙未事変(1895年)をきっかけに民心が爆発し、朝鮮の自主性を失った政府に対する批判が高まると、1897年、朝鮮王朝26代目の王・高宗(コジョン/고종)は自ら皇帝に即位し、「朝鮮」の国号を「大韓帝国」に改め、皇帝国を宣言しました。
皇帝って王とは違うの?皇帝国は何が差があるの?
今まで朝鮮は、中国の顔色をうかがうために王に留まっていたけど、「私たちは中国の属国ではない!」、「中国と対等な自主的な国家だ!」ということを示すために皇帝になって帝国を宣言したんだよ。
この部分は韓国でも議論があるから補足説明すると、朝鮮が正式な中国の属国だったことはないよ。ただ、朝鮮はこれまで中国の属国と諸侯国の間の中間概念の関係を維持してきたため、中国と対等な関係の皇帝国にはなれなかった。皇帝国を宣言したなら、中国との仲も悪くなっただろう。 このような外交関係と名分を持って毎回戦ってきたのが朝鮮の儒学者だけど、今回それが可能だった理由の1つは当時、清国(中国)も外国勢力の侵略で余裕がなかったためだよ。
高宗は大韓帝国を宣布して、単に怒った国民をなだめようとしたのではなく、実際に国を変えたがっていました。外国勢力の介入を防ぐためには、大々的な改革と開放が必要だと思ったからです。
高宗の大韓帝国は、光武改革と呼ばれる様々な改革を実施しました。憲法にあたる大韓国制が頒布され、土地測量作業と農地の所有証明書の「地契」を発給したり、貨幣改革や銀行設立、技術学校の設立、郵便や電報なども全国的に広がり、電話も開設されました。
様々な改革をするには西洋の文物を受け入れなければならないけど、それは結局お金が必要。安定的な税金確保のために土地と農地所有に対する改革が一番最初に必要だった理由だよ。貨幣改革も同様。
しかし外国からの干渉は相変わらず、朝鮮の主導権を巡り、日本とロシアによる日露戦争が起きます。
大韓帝国はこの戦争に“中立”の立場でしたが、ロシアを口実に進駐した日本の軍隊に漢城(ソウル)を占領され、1904年「第一次韓日協約」を結び、日本の本格的な干渉を受けるようになります。
日露戦争で勝利した日本はその後、アメリカの仲介でロシアとポーツマス条約を結び、ロシアに対して「日本の大韓帝国の独占的支配権」を認めさせました。競争相手がいなくなったってことです。
そしてさらに翌年の1905年に「第二次韓日協約」を結び、大韓帝国は外交権も奪われ、統監府の支配下におかれるようになります。初代の統監は伊藤博文です。
うわ~条約が沢山出てきたよ~
難しくなってきたTT;
本当はもっと沢山あるんだけど、まずは条約を結ぶようになった理由とその結果だけ理解してみよう!
この時期の最も重要なポイントは1905年(乙巳年)の「第ニ次韓日協約」! 韓国では“乙巳條約(을사조약)”’と呼びます。
実際には自主国家のすべての権利を完全に奪われましたが、形式的には大韓帝国自らが国家主権を日本に譲渡した条約です。
この時、乙巳条約(第二次韓日協約)締結を積極的に主導した大韓帝国の大臣(代表者)5人は、国を売った者と言って乙巳年の5人の敵、“乙巳五賊(ウルサオジョク:을사오적)”に呼ぶよ。この5人の民族の反逆者・乙巳五賊は韓国史で非常に重要で試験にもよく出てくるよ。
特に代表者イ·ワンヨンは韓国人が非常に嫌悪し憎悪する人物だから、「イ·ワンヨンみたいな奴」という悪口を今もよく使うほど。 ドラマ『ミスターサンシャイン』を見ると、高宗と乙巳五賊の関係について詳しく見ることができるよ。
そして2年後の1907年、さらに「韓日新協約」を結ぶと、大韓帝国政府を日本人が掌握し、1910年の韓日併合条約(庚戌国恥)まで続き、日本植民地時代を迎えることになります。
いくら乙巳五賊がいても、一方的にやられてると思うんだけど大韓帝国側は、ただ素直に受け入れたの?
決してそんなことはないよ。もちろん日本と条約を結ぶことを積極的に考える人もいたけど、ほとんどの人は反対だったよ。大韓帝国の皇帝・高宗も、条約を結ぶことは反対だったし、条約の不当性をオランダのハーグで開かれた万国平和会議で訴えようとしたからね。でもすでに外交権が日本に渡っていたから、その主張は受け入れられなかったんだ。
外国の助けを求め、特使を送ったハーグ特使事件によって、日本は高宗を強制的に退位させ、幼い純宗(スンジョン)を即位させたよ。ドラマ『ミスターサンシャイン』では、この時、乙巳五賊が高宗に自決を強要する場面が出てくるほど高宗の権威は弱く、乙巳五賊と親日派の権力は強大だった。朝鮮時代には想像もできない場面だよねㅠㅠ
抗日義兵活動
日本が大韓帝国に少しずつ侵攻を強めていくこの頃は、抗日義兵運動と愛国啓蒙運動が活発に行われていました。
抗日義兵運動は1895年頃から始まり、儒学者を中心に地方官吏や農民も参加する全国的な反日武力運動を行いました。最終的には日本の「南韓討伐作戦」で大きなダメージを受け、旧満州地方や沿海州一帯へ根拠地を移動します。植民地化された後も、独立軍を結成する基盤になっていきます。
さっき紹介した5人の売国奴“乙巳五賊”を暗殺する運動も行われていたし、この時期、韓国で一番有名な人は安重根(アン・ジュングン)義士だよ。 必ず覚えなければならない人物! 安重根義士の死刑前の写真と手形が有名だけど、意志を固めるために自ら指を切って血書を書いたため、指の関節が短いんだ。あの手形は今も韓国でとてもよく使われるイメージだよ。 韓国独立運動の象徴!
えっと、その手形の画像は見たことあるんだけど、具体的に何をした人なの?
安重根義士は、1909年に朝鮮統監・伊藤博文をハルビン駅(中国)で暗殺した人だよ。翌年に死刑になってしまうんだけど、韓国ではこういった義兵活動を行った人を敬って“義士”と呼び、安重根も“安重根義士”と呼ぶよ。
ソウル龍山にある孝昌(ヒョチャン)公園には、植民地解放後、1946年に造成された「三義士墓域」という場所があります。独立闘争をした義士の中でも代表的な人物であるイ·ボンチャン、ユン·ボンギル、ペク·ジョンギ義士の3人の墓地があるところです。
この場所の名前は「三義士墓域」ですが、4つの墳丘がある理由は、安重根義士の遺体を祀るために仮墓が作られているからです。
写真の一番左にあるのが安重根義士の墓で、「ここは安重根義士の遺体が奉還されれば、祀られる墓です。」と書かれた碑石が建てられています。
中国の旅順監獄で死刑になった後、遺体が見つからず、最近まで韓国では様々な方法で旅順監獄地域一帯を捜索したが、成果がなくて韓国人は残念がっているよ。
愛国啓蒙運動
愛国啓蒙運動は簡単に言うと、国のために国民が賢くならなければならないという運動です。
1905年から1910年の間、日本による貨幣改革によって国民個人も借金が多くなり、多くの外国文物を輸入するために国の国債も借金が多い状態でした。
このような状態で外国に奪われた主権を取り戻すためには、まず国の借金を返済し、国民がたくさん学び、国家の力を育てることが必要です。外国の影響から脱し、国権を回復しようという運動で多くの団体が結成され、それぞれの形で国権回復のために働きました。
特に最も有名で国民の参加度が高かった1907年国債補償運動は、全国的に広がった募金運動で禁酒·禁煙·節約などをして借金を早く返して日本からの経済的独立をしようとした運動です。
その他にも全ての教育のスタートとなるハングル文字を普及するハングル教育運動も活発に行われました。この活動は完全に植民地化された後も大韓帝国闘争精神の基盤になっていき、長い時間が経って現代の軍事政権期の「夜学」活動にも継承されていると思います。
韓国史の勉強ではそれぞれの団体の活動なども習うよ!成果を出せた団体もあったけど、結局は日本の弾圧によって強制解散させられるけど、本格的に独立運動が行われる時期には、多くの役割を果たしたよ。
次回は、1910年からの “日帝強占期” をざっくり解説していくよ~!