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初心者向け  ざっくりとした韓国史解説③朝鮮時代

韓国史学習

おはる
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前回の記事に続き、韓国史の学習を本格的に始める前に歴史を「大きく捉える」のに役に立つ、歴史のポイントを紹介します!今回は最も重要な朝鮮時代!まだ韓国史解説①,②をご覧になっていない方は、そちらからご覧ください。

朝鮮時代/조선시대(1392ー1897)

おはる
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高麗時代は時期別の主導勢力によって流れを把握するなら、朝鮮時代からは王の順序と業績を中心に流れを把握した方が良いです!王の数が多いけど、重要な王から先に把握し、後で少しずつ追加していく方法をおすすめします!最初から全ての王を覚えるのは挫折しちゃうよ~。朝鮮以前の時代よりは重要な時期なので様々な制度や人物もたくさん登場するけど、初心者の段階では重要なキーワードと全体の流れだけ把握するつもりで気負いせず読んで下さい☺

朝鮮前期

KBSドラマ『鄭道伝(정도전)』(2014)の李成桂(左)と鄭道伝(右)
出典:헤드라인뉴스

威化島から引き返ってきた李成桂(イ・ソンゲ)は1392年に朝鮮を建国した太祖(テジョ/태조)!彼を陰でサポートしていたのは高麗末期の新進士大夫の代表人物、鄭道伝(チョン・ドジョン/정도전)です。

鄭道伝は新しい国の必要性や朝鮮の建国理念まで、ほとんどの理論を立てた人で、軍事力を担当していた李成桂のブレイン(脳)の役割をしていました。

国家に対する忠誠と名分、礼節と孝を重要視する儒教と性理学を土台に様々な制度の基礎を築き、朝鮮王朝が500年間続く非常に堅固な基礎となったため、朝鮮の精神の象徴と言えます。

おはる
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朝鮮儒教の文化が現代の韓国の文化にも沢山残っていることを考えると、韓国人に本当に大きな影響を及ぼした人が鄭道伝と思うよ!

景福宮 *2019年撮影
(風水的な立地条件として良い「背山臨水」の場所に都が建てられた)

また、風水で都を開城(ケソン:現北朝鮮)から、漢陽(ハニャン:現ソウル)へ移し、全国を8道に分けたり、政治機構の整備、朝鮮王朝の基本法典を書き、建国に献身しました。観光名所でも有名な景福宮(キョンボックン/경복궁)はこの時に建てられた王宮で、現在私たちが見る景福宮はもともとの規模(建物の数や土地)の30%くらいで、2045年に復元工事が終わる予定だそうです。

鄭道伝は高麗末期の混乱を改革したかった新進士大夫だったので、王1人の能力によって国家全体が揺れる世の中を望んでおらず、宰相と臣下が徹底した儒教精神に従って国政を運営する臣下中心の新しい世界を望みました。

ペンちゃん
ペンちゃん

ところで「新進士大夫」って何?改革派ってこと?

おはる
おはる

反対派もいたけど、ほとんどはそうだよ。新進士大夫(シンジンサデブ/신진사대부)は成均館(ソンギュンガン/성균관)の学者たちで、簡単に言えば高麗でトップの学者たち!高麗の国の短所を指摘して、朝鮮の建国に力を注いだ人達で、朝鮮時代も成均館は引き継がれ、現在も成均館大学として続いているよ!

成均館大学 2019年学位授与式の様子
出典:한경뉴스

3代目の王・太宗(テジョン/태종)は、初代の太祖の5男です。太宗は父・李成桂と鄭道伝と一緒に朝鮮建国を主導しましたが、鄭道伝とは考えが違いました。

太宗が望む朝鮮は強力な王が中心だったため、王権を強めるために王族や功臣が私兵を持つことを禁じ、王が直接政治に関われるような仕組みを採択しました。

また、朝鮮の建国理念は性理学(儒教)。仏教が大きな力を持っていた高麗時代とは変わり、全国に沢山あった寺院の数を大幅に減らして、寺院が持っていた土地と奴婢を国が没収しました。そういった財源もあり、朝鮮前期は朝鮮の基盤をしっかりとつくることが出来ました。

おはる
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太宗は鄭道伝の目標である臣下中心の朝鮮を望まなかったため、鄭道伝を殺して兄の定宗を臨時で2代の王にした後、自分が3代目の王になったよ。だから2代目の王は期間も短く業績もほとんどないんだ。

ソウル光化門前の世宗大王の像 *2011年撮影

太宗の息子で朝鮮4代目王世宗大王の時代は、朝鮮前期の全盛期と言えます。

朝鮮固有の文字であるハングル創製や、日時計や測雨器などが発明され、文化・科学だけでなく多方面で大きな発展を遂げます。

ペンちゃん
ペンちゃん

世宗大王は僕もしってるよ~!ハングルを作ったってことは基本でしょ!(笑)

おはる
おはる

李舜臣将軍と合わせて、韓国人が尊敬する偉人に選ばれる王だよ!この時期に色んな分野で発展があったから、今回はハングル創製と科学技術の発展だけ覚えてね!

ペンちゃん
ペンちゃん

まだまだ覚えることが多いのかぁ~TT

太祖、太宗、世宗の時代を経て全盛期を送った朝鮮初期の最大の問題点は、世宗大王の息子の健康が悪かったということでした。

世宗の息子·文宗(ムンジョン/문종)が短命で、文宗の息子·端宗(タンジョン/단종)が幼くして王に就任すると、世宗の次男で文宗の弟である世祖(セジョ/세조)が王になり、朝鮮の正統性が揺れ始めます。

ペンちゃん
ペンちゃん

王の正統性ってそんなに重要なの? そんで、世祖も世宗の息子なの?

おはる
おはる

理論と原則を重視する儒教の朝鮮で、王位継承の原則が崩れたということは小さいけど大きな変化だった。世祖は一応、4代王の世宗の息子だったけど、その後は様々な理由で王が廃位になったりするから、朝鮮が衰退する始まりと見ることもできるよ。

2019年にユネスコ世界文化遺産に登録された「韓国の書院」9ヶ所
出典:문화청

王の正統性は揺れ始めましたが、朝鮮の儒学(儒教)はますます発展していきます。

朝鮮は、儒教(性理学)を重視したと話しましたが、日本の儒教にも大きく影響を与えるほど発展します。地方には書院(地方の性理学教育機関)が設立され、学問を通して理想的な人間になることを目標にした人材育成を行い、科挙制度(官吏選抜試験)に合格するための登竜門になりました。

しかし時が流れ、現代の政治でも政党が対立するように、朝鮮時代も政党の争いが続きます。建国初期には力が弱かった勢力が、書院を通じて権力の基盤を築きあげると、対立はさらに激しくなっていきます。

彼らの対立の原因のほとんどは、性理学(儒教)の経典の解釈に対する考え方の違い。

宇宙の原理や、「理」と「気」がどう関係しているのか?や、物事の成り立ちの考え方の違いで対立していきます。

両班制度により身分差別はますます激しくなり、実用的な技術の発展を成し遂げた朝鮮初期とは異なり、学者たちが消耗的な理論争いと論功行賞に陥るにつれ、朝鮮の実質的な国力は少しずつ弱まっていきました

おはる
おはる

この党争をさかのぼると、高麗時代に始まるよ。朝鮮建国を巡って意見が合わず、建国後もお互い譲らなかったんだよね。朝鮮中期以降はこの現象がもっとひどくなるよ。

16世紀の朝鮮を代表する性理学者, 1000ウォン札の李滉(イファン)と5000ウォン札の李珥(イイ)
出典:오마이뉴스

そんな時期に王になったのが、9代目の王・燕山君(ヨンサングン/연산군)です。

燕山君は、朝鮮では狂った王・暴君とされています。王に即位した初めのころは、国防を強化するなど政治にも積極的でしたが、そのうちに悪行が目立ち始め、儒教を軽視し、全国から美女を集めて妓生を育て、成均館や先代の王が作った寺を遊興場にしたりしました。

それだけでなく、王は読んではいけないという決まりがある<朝鮮王朝実録>を読み、自分の母の死について知ると、これを口実に政党に関係なく数十人の臣下を処刑したりもしました。

燕山君を扱った映画『奸臣(간신)』(2015)の燕山君の狂気的な姿 
出典:월간중앙

結局、燕山君の自分勝手ぶりに耐えかねた勢力が、クーデターを起こし、燕山君は廃位され、江華島に島流しされ2ヶ月後に病死します。

世祖から始まった小さな亀裂は、燕山君が廃位になり、誰が王にならなければならないのか?を巡ってさらに深刻になります。

燕山君の後に続く王たちの代でも臣下たちの理論を巡る争いは収まらず、中央政権に進出できるようになると、今度はその少ない役職を巡り党内でも対立が起き、どんどん分裂していきます。

その後に起こる、壬辰倭乱や丙子胡乱が始まる前に、すでに朝鮮は内部的に弱くなっていたのです

ペンちゃん
ペンちゃん

こういう時こそ、王がしっかりしていれば良かったのに~

おはる
おはる

朝鮮王朝の王の名前は、初代の「李成桂(イソンゲ)」のように本名があって、王が亡くなった後にその王の功績を評価して「太祖(テジョ)」などの名前がつけられるよ。普通は「」や「」といった廟号(びょうごう)がつけられるけど、燕山君は廃位されて功績が認められなくて廟号がないんだよ。

朝鮮時代前期と後期が分かれるポイント

朝鮮時代は大きく前期・中期・後期に分かれますが、そのポイントとなるのが日本の歴史でも習う「文禄・慶長の役」。韓国では「壬辰倭乱(임진왜란)(1592~1598)と言います。豊臣秀吉が明への進出のために朝鮮に攻め入った事件です。

この時の王は14代目・宣祖(ソンジョ/선조)でしたが、党争いが続いていたため、軍の整備に関しても意見が分かれており、備えが十分でなかったため、日本軍が釜山に上陸し20日ほどで、漢城を陥落させます。宣祖は漢城を捨てて明に援軍を求め一時休戦するも、結局、豊臣秀吉の死でこの戦争は終わりを迎えました。

ソウル光化門の李瞬臣(イ・スンシン)将軍の銅像 *2019年撮影
李瞬臣将軍は壬辰倭乱で活躍した将軍として韓国の偉人とされている

おはる
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朝鮮水軍を率いて大活躍した!くらいかと思うかもしれないけど、李舜臣将軍1人で日本軍全体を阻止したと言われるほど、朝鮮の没落を阻止するほどの成果を治めたから、韓国人にとっては守護神のような存在としてとっても人気の人物だよ。

李舜臣将軍の大活躍で朝鮮は守り抜いたものの、7年間の戦争の後遺症はあまりにも大きかったです。

朝鮮では人命は勿論のこと、文化財などの財産や戸籍・土地台帳などの文書も焼失し、公務員の身分証明書まで販売しないといけない程に、国の運営や国家財政も危ぶまれるほどの状況で、身分の上下関係なども崩れてくるという社会問題まで発生します。

宣祖の後に続く光海君(クァンヘグン/광해군)は、混乱した国内情勢を収拾するために、土地改革や農民の税を軽減したり、商工業の発展に力を注ぎました。

また、光海君は即位し1年後に日本と条約を結び再び交流が開始され、壬辰倭乱の時に援軍を送ってくれた明が後金から攻撃された時に援軍を送らず、中立な立場を取る「中立外交」が代表的です。

この時期の中国は、朝鮮と親しかった明は衰退し、後金から始まった清が生まれる直前の時期だったので、朝鮮はよく考えて選択をしなければならない立場でした。

ペンちゃん
ペンちゃん

光海君も廟号がないの?「君」だけど?

おはる
おはる

朝鮮王朝で廟号がないのは「燕山君」と「光海君」の2人だけだよ。理由の一つに、「中立外交」が挙げられるよ。当時は“名分”を一番に重視していたから評価されなかったんだけど、現代の価値観では、その実利性とバランス感覚が評価されたりもしているよ!

実用主義的な路線を選択した光海君は、朝鮮半島でのさらなる戦争を防ぐために、日本と明、後金すべてに中立的な立場をとりましたが、名分を重視する臣下にとっては壬辰倭乱の時に助けてくれた明を裏切る行為でした。

結局、光海君は中立外交など様々な理由でクーデターにより廃位され、12代目の王・仁宗(インジョン/인종)が即位します。しかし仁宗を擁立した政党は名分を重視し、明を脅かした後金と対立すると、後金との戦争である「丁卯胡乱(정묘호란)」(1627年)、清(後金が清を建国)との戦争「丙子胡乱(병자호란)」(1636年)が起きます。

壬辰倭乱後の復旧も出来ていない状態の朝鮮は、丙子胡乱で清に敗れ、清の要求である君臣関係を結び、2人の王子を人質として清に送るなど11個の厳しい条件を受け入れなくてはいけませんでした。

清により多くの収奪を受け、朝鮮の国力がさらに衰退した事件です。

蚕室(チャムシル)ある三田図碑の扁額の絵
出典:오피니언뉴스
ペコム
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映画『天命の城(남한산성)』(2017)はこの出来事がテーマだよ。その時の王の仁祖は、遠くに逃げる時間もなくて南漢山城(広州)にこもって耐えたけど、結局、清(中国)に降参して、一国の王・仁祖は「三跪九叩頭の礼(さんききゅうこうとうのれい)」をしなくちゃいけなかったの。手を地面につけ、おでこを地面に9回も打ち付けるという儀式…(泣) 韓国人にとって最も恥辱的だったこの日の場所は「三田渡(サムジョンド/삼전도)」だけど、今のソウルの蚕室(チャムシル)ロッテワールドのすぐ前の湖畔の「三田渡碑」にその場面が描かれているよ。

朝鮮後期

そんな屈辱を経験したのにもかかわらず、朝鮮では依然として党争は続いており、そんな状況をうまくまとめようとしたのが21代目の王・英祖(ヨンジョ/영조)と22代目の王・正祖(ジョンジョ/정조)です。

英祖は人事のバランスを取る「蕩平策(タンピョンチェク/탕평책)」を実施し、特に党争いをなくそうと考える人たちを中心に政権の運営を務めました。他にも、農民の税負担を減らしたり、罪人の死刑の際には必ず三審制の裁判を行うなどしました。これらの政策を通して、王権は安定し強くなっていきました。英祖は朝鮮王朝で一番在位期間が長く、52年間も王の仕事を全うしました。

正祖も英祖の蕩平策を引き継ぎ、人事のバランスに気を使いました。さらに正祖は奎章閣(図書館&研究機関)を設置したり、今まで公職につけなかった庶子(ソオル/서얼)と呼ばれる身分の人たちも登用したりと、新しい試みをします。

この時期には、これまでの理論的な論争ではない実用的な学問実学」が発展します。貧富の格差が広がり、従来の封建的身分の権威に疑問を持ち、実践的に社会や経済などの問題を解決しようという考え方で、外国の文明や新しい技術を積極的に受け入れて社会を改善していこうという動きです。

朝鮮後期の2大聖君である英祖と正祖の長期の在位期間のおかげで、実学による朝鮮経済は回復し、第2の全盛期を迎えます。 政治、社会、経済、国防のすべての分野で安定を取り戻していきました。

水原華城 ユネスコ世界文化遺産 *2019年撮影
おはる
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正祖の時代に建てられた水原華城を高く評価する理由の1つに、伝統的ではないことが挙げられるよ。実用的で合理的な実学の精神が反映され、城の形と構造、材料まで朝鮮と西洋の方式を調和させて建てられ、デザインから他の朝鮮の城とは違いが多かったよ。儒学の原則を重視した時代には想像もできなかったこと!ここに水原華城を建てた正祖の悲しい物語まで合わさり、有名な場所になったんだよ。

しかし正祖以降は王権が弱くなり、朝鮮では王の外戚や少数の名門家たちが権力を独占する「勢道政治(せいどうせいじ)」の時期が続きます。

これによって国政は乱れ、少数の権力者の民に対する収奪が続くと、農村では民乱が相次ぎ、西洋文化の流入により伝わったカトリックが民の心を慰めてくれました。 カトリック信者が増えると儒教の朝鮮は強力な宗教弾圧を行います。

宣教師たちの死は列強国たちが朝鮮に侵攻してくる決定的なきっかけになります。

列強国は朝鮮への通商を要求しますが、朝鮮は興宣大院君(フンソンデウォングン/흥선대원군)が徹底的な鎖国政策を行います。

ペコム
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ドラマ『ミスターサンシャイン(미스터 션샤인)』(2018)の始めの部分はこの時代だよ!外国からの攻撃があった時期。開国時期から日帝強占期までの朝鮮の姿を見ることが出来るドラマだよ!

鎖国政策を主張するために全国各地に建てた“斥和碑” *2019年撮影

しかし、1876年の明治維新以降、急速に強まった日本の武力に屈し、「江華島条約(朝日修好条規)」が結ばれると、アメリカ、イギリス、フランスなどの西洋諸国も相次いで侵攻し、通商条約を結びます。

開国をめぐる混沌の時期に発生した2度の反乱と全国的な農民運動の鎮圧さえ困難だった朝鮮は、清と日本の軍隊の助けを要請し、朝鮮半島は列強国の競争場所になってしまいます。

農民運動ソウルにある東学農民運動のリーダー全琫準(チョン・ボンジュン)の像 *2019年撮影

日清戦争の日本の勝利で日本は清と下関条約を結びますが、その内容の中に「遼東半島の割譲」があり、それに待ったをかけたのが、フランス、ドイツ、ロシアです。朝鮮内では日本の朝鮮に対する内政干渉や親日政権に反対する勢力が、ロシアの力を借りて日本を抑えようとしましたが、日本が親露だった閔氏(王妃)を殺害する「乙未事変(을미사변)」が起きます。

ペコム
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国母でもあり王妃だった閔氏を殺害した事件によって、朝鮮国民の怒りが極限に達した事件だよ。この事件は今の韓国人たちにも一番怒りを感じる事件だから、学校でも必ず教えているよ。

乙未事変が起きた景福宮の奥の方にある「乾清宮」 *2019年撮影

朝鮮の王妃が親日勢力に殺害されたにもかかわらず、朝鮮王室は日本に何の抗議もできない程、自主性を失った王室に対する批判が高まると、26代目の王・高宗(コジョン/고종)は1897年、「朝鮮」の国号を「大韓帝国」に改め、再出発を試みます。

おはる
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いきなり様々な事件が登場するけど、まずは多くの帝国の侵入の時期という流れだけを把握しよう!朝鮮時代はここまで!まだまだ、重要な部分はあるけど、大まかな流れはこんな感じです!次は「大韓帝国時代」から「日帝強占期時代」をまとめていきます~☺

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