今日は韓国の土地の話をしてみるよ!ドラマや映画を観ていると、とてもよく登場するソウルの”江南(カンナム)“について調べてみよう!
江南を知れば韓国の教育熱とアパート文化まで一緒に分かるよ~(笑)
江南(カンナム)はどこ?
ソウルは1392年の朝鮮時代の始まりとともに、”漢陽(ハニャン)” が都になって以来、600年以上続いた大韓民国の首都だ。ソウルの中間には東西方向に大きな川 “漢江(ハンガン)” が流れていている。
漢陽(ハニャン)は、今はソウル江北(カンブク)と呼ばれる漢江の北側にあったので、ソウルは漢江の北側から発展してきた。
ソウル観光をする時、王宮をはじめとするほとんどの歴史的遺跡は江北地域に位置している理由だよ!
そして漢江の下の地域を漢江の南、”江南(カンナム)”と呼んだ。 昔の江南は今の江南区ではなく、ただ漢江の下側全体を表した表現。
ただソウル漢江の “南” 地域を指していたこの単語が、時間が経って “江南不敗”、”江南不動産神話” と呼ばれるようになるとは誰が想像したのだろうか。その話を始めてみよう。
江南の誕生過程
江南開発の必要性
確かにノワールのジャンルだった韓国映画のポスターが、男性主人公1人が消え、男女の恋愛ロマンスのポスターに変身して話題になった、映画『江南ブルース』の日本版ポスター。
この映画は1970年にソウル、江南の不動産開発が始まった時期の政治ヤクザの話で、江南の開発初期の姿を見ることができる。
その時期について話すと、朝鮮戦争から20年経ち、朴正熙大統領主導の経済成長計画が進み、大韓民国の首都ソウルは人口が集中して飽和状態に至った。
はっきり言うと、今のソウル駅と景福宮を中心とした “江北” 地域に、これ以上広い土地がないのだ。朝鮮時代以降600年以上首都だったから、それも当然だ。
これを受けて、朴正熙政権は北に集中しているソウルの均衡発展のために、漢江の南に分散と拡張を計画した。
江北の旧都心の1核都市から江南に2核を追加した三角形の3核都市。西には “汝矣島” の商業地区、東の “江南” には金融業務地区。そのように指定された地域が今の江南だ。
開発以前の江南
1970年代までは田んぼや畑だけで、漢江が氾濫して浸水も頻繁だったソウルの南東部の地域は当然交通も遅れていた。貧民層が居住する地域なので主にソウルの人々の農産物供給地としての役割を果たしていて、江南で生産された野菜や果物はソウルの南大門市場や東大門市場で販売された。
挑戦戦争後、100万人だったソウルの人口が300万人に増加し、1960年代半ばから準備された計画に従って、1969年12月に江南地域を結ぶ “第3漢江大橋” が完工し、1970年7月にソウルと釜山を結ぶ “京釜高速道路” が江南地域に完工し、本格的な江南開発の歴史がスタート。この時、ソウルの人口はすでに540万人。
1年ごとに60万人が増加するほどソウルの人口成長は爆発的で、江南の開発は非常に至急で重要な政策課題だった。
政府は今も急いでいる時は相手にしやすい対象の “公務員たち” から強制的に移住させ始めた。始めは “自主的に” ということだが、公務員たちの反応は非常に良くなかった。
実は、当時の基準でソウル都心から田畑の真ん中の江南に自ら引っ越す人は公務員にはさせちゃいけないんだよね。正気じゃないだから(笑)
反強制移住政策
幸い?韓国には正常な公務員が多くて江南が人気がなくなると、多くの公務員が “半強制的に” で移住することになった。軍事政権時代だから(笑)
それでも依然として脆弱な基盤施設のおかげで移住は低調で、1970年代初めのオイルショックによる経済不況まで経験したため、政府は焦った。
そして1975年、政府はとうとう “強制的に” を始める。
“ 漢江以北地域の宅地開発禁止措置 ”
江北には最初からの新しい住宅地区の開発ができないようにしたんだよ。さすが!私たちの熱い独裁者!(笑)
韓国最高裁がソウル江南にある理由
もちろん軍事政権だからといって無条件に強制的に進めたわけではない。なんとか江南に引っ越すようにするために色々な誘引策があふれた。
その第一段階として人が多く集まるデパートや市場、風俗店などの街を造成した政府は叫んだ。
「皆江南に来てください!」
「それでも来ないの?」
依然として反応が芳しくないため、今回は最初から官公庁であるソウル市庁を皮切りに、最高裁、最高検察庁、調達庁、山林庁、韓国銀行本店、〇〇銀行本店、〇〇銀行本店、各種公企業まで…。すべて移転させようとしたが、激しい反発により韓国最高裁と最高検察庁だけが移転した。
今考えると、「狂った地価の江南のど真ん中に、どうしてあんな大型官公庁が存在するの?」と思うかもしれないが、順番が変わったのだ(笑)
おかげで私たちはニュースで江南に住んでいる各界の高位層の人々が検察にすぐ連れて行かれるのを見ることができる(笑) 朴槿恵、李明博大統領も家が江南だったんだ。大統領も欲しがるところ江南! (笑)
最初から、職場の位置を移せば仕方なく引っ越すだろうという計算だが、実は彼らにとって一番大事なのは職場ではなかった。
「職場のせいで引っ越そうとしても、子どもたちの学校が問題だから···」
当時、韓国は今も同じだが、居住地によって学校の割り当てが決まる方式だった。
すでに韓国型入試地獄が始まっていて、中高校入学から試験で入学する競争の時代だったから、親たちは江南に職場が移転しても子どもたちのために相変わらず江北から江南に通勤していたのだ。
政府は結局1976年、韓国最高の名門だった “京畿高校” の移転を皮切りに、江北の有名名門学校を強制的に移転させた。
江北に散在していた15の名門学校が江南に集中し、まさに現代韓国、すべての元凶の1つである “江南8学区” が誕生することになるのだ。
ソウルは地域別に学区に数字をつけて11の学区に分かれていたんだけど、8学区は江南区と瑞草区に位置する高校の学区名称なんだ。その後、8学区は韓国の最高名門学校と学区として有名になったよ。
江南伝説の始まり
SKYは基本! 江南8学区
最高の名門だった京畿高校を皮切りに、ソウル高校、フィムン高校、淑明女子高校など合わせて15校が江南区と瑞草区地域に移転することになり、最初は卒業生たちの反発が激しかったという。自分たちの思い出が詰まった母校が、新しい学校に変わるのが当然嫌だっただろう。
最高名門高校らしく、その同窓生たちも主要人物が多かったので強く反発したが、”中央情報部“という単語1つで全て整理された(笑)
“南山(ナムサン)”に行きたくなければ政府の言うことを聞かないと(笑)
キョンギ高校出身の主要人物だけでもとてつもなく多く、他の14校まで含めると韓国を率いている学校と言っても過言ではないほどだった。
江南8学区の名門高校では、韓国の “SKY(スカイ:S・ソウル大学、K・高麗大学、Y・延世大学)” 大学には基本的に進学するという認識だったので、受験生を持つ韓国の保護者の立場から、江南8学区はなんとか子どもたちを入学させたいところという認識に変わり始めた。
いくら勉強ができない学生も、周りの学生たちの雰囲気についていくだけで普通の有名大学には行けるという伝説の学区だった(笑)
私教育1番地、大峙洞(テチドン)の塾街
結局、熱心な保護者と学生たちがソウル各地から集まるようになり、おかげで江南の教育環境が急速に改善された。
名門学校の周辺には自然に塾も1つ2つとできるようになり、全国最大の塾密集地域に変身したのが、ソウル江南区の”大峙洞(대치동・テチドン)“だ。
今でも韓国で “大峙洞塾街” と呼ばれているここは、韓国の私教育1番地になった。
2022年現在も、大韓民国の燃える学究熱あふれる私教育のレジェンド、ラスボス。
大峙洞の学園街の伝説は、このように江南の誕生と共にしたのだ。
2020年基準で教育庁に申告された大峙洞所在の塾だけで870ヶ所余り、個人教習所を含めて2000ヶ所余りだというから想像出来る?(笑) “洞” の1ヶ所に塾が1000ヶ所余り(笑)
夜10時過ぎになると、多くの塾のバスと子どもたちを帰宅させようとする保護者の乗用車によって、深夜は交通渋滞が起き、駐車の取り締まり要員と警察が出動する混沌の場所。
まるで風俗街の照明のように華やかな塾のネオンサイン。大人になった後、その姿を見ると本当に色んなことを思う。
ソウル江南の伝説はそうやって始まり、今も現在進行形。
韓国の教育熱と大峙洞塾街の詳しい話は、こちらの記事を参考にしてね★