今回は韓国の “3·1運動” の象徴とも言えるユ・グァンスン(柳寛順)烈士の話だよ! 国の独立を夢見て17歳で生涯を閉じた少女の遺言と写真に盛り込まれた事情について調べてみた!幼い年で独立運動は本当にすごいことㅠㅠ
ユ・グァンスン烈士と3·1運動
내 손톱이 빠져나가고 내 귀와 코가 잘리고
私の爪が取れて耳と鼻が切れて내 손과 다리가 부러져도 그 고통은 이길 수 있사오나,
私の手と足が折れてもその苦痛には勝てますが、나라를 잃어버린 그 고통만은 견딜 수가 없습니다.
国を失ったその苦痛だけは耐えられません。나라에 바칠 목숨이 오직 하나밖에 없는 것만이
国に捧げる命がただ一つしかないことだけが이 소녀의 유일한 슬픔입니다
ユ・グァンスン烈士の遺言
この少女の唯一の悲しみです。
ソウルの “梨花学堂” 在学中にタプコル公園の万歳運動に参加したユ・グァンスン烈士は、3·1運動の象徴的な人物だ。
ソウルで始まった万歳運動が全国に広がると、緊迫した日本が、集会を防ぐために韓国の全学校に休校令を出したが、ユ・グァンスン烈士は故郷の天安(チョンアン)に行き、家族と共に “天安地域万歳運動(アウネ市長万歳運動)”に参加した。
両親は日本の警察に殺害され、自身は親日派朝鮮人のチョン·チュンヨン(정춘영)によって逮捕され拘束。
フィギュア選手のキム·ヨナが歌って話題になった3·1運動100周年記念の歌「3·4·5·6」を聞きながら、ユ・グァンスン烈士の映画をしばし鑑賞してみよう。
裁判では、二度と独立運動をせずに大日本帝国臣民として生きることを誓えという裁判長の発言に、「私は倭奴等に屈しない!」と裁判長に椅子を投げたユ·グァンスン烈士は法廷侮辱罪で懲役5年刑という重刑が言い渡され、ソウル西大門刑務所に収監された。
これに控訴して3年刑に減ったが、翌年1920年9月、むごい拷問に耐えれず享年17歳で獄死。
どれほど拷問が残酷だったのか、彼女の母校である梨花学堂で遺体を返還することを要求したが、西大門刑務所で拒否したほどだったという。
監獄の中でも同僚たちと万歳運動を続けて拷問が止まらなかったというㅠㅠ
むくんだ顔、尊敬する顔
結局1920年10月に遺体を返還され共同墓地に埋葬されたが、日本が共同墓地を軍用機地にする工事を進めたため遺骨が紛失した。
そのため、現在ユ・グァンスン烈士の墓にある石棺には遺体が入っていない仮墓の状態だ。遺体を見つけられなかったアン・ジュングン(安重根)義士と似たような事例だ。
生存した当時の収監者によると、性的暴行や殴打、水拷問は基本で、頭の皮をむいたり、手·足の爪をすべてはぎ取る、火で熱した鉄の塊で性器を焼くなどの残酷な拷問を受けたということだ。
そんな中、独立の歌も作って歌って万歳運動までㅠㅠ
年も若い上に写真があまりなかった時期なので、下の刑務所収監記録写真がユ・グァンスン烈士を代表する写真としてよく登場するが、顔が太って丸く見える理由は、太ったのではなく、目と顔、あごともに殴られてむくんでいる状態だそうだ。歯も折れてほとんどなかったそう。
韓国人の場合、幼い頃は教科書の写真を見て “顔がむくんでいる独立運動家” などと考えていても、高学年になって写真に写っている事情を知ると皆心を痛めるという。
死亡当時が17歳だから拷問は16歳から始まったのだ。
中学、高校生の時、先生が「お前たちの年だよ」、「お前たちがゲームをしている時、この方々は独立運動をしたんだ」という発言をよく聞いたㅠㅠ
梨花女子大学とプロテスタント
しかし、ユ·グァンスン烈士の業績がものすごいというわけではないので、ちょっとした議論はあるそうだ。立派な人物ではあるが、3·1運動の象徴になるほどの独歩的な業績ではないという意見。
当時の裁判記録を見ると、3ヶ月間の万歳運動鎮圧過程で死者7,509人、負傷者15,961人、拘禁者46,948人と出てくるので、ユ・グァンスン烈士は収監された拘禁者46,948人のうちの1人に過ぎないのに、あまりにも過大評価されているということだ。
ユ・グァンスン烈士が1919年当時、天安で行われた万歳運動を主導的に計画し指揮したのは事実だが、記録には最も先頭に立って率いたチョ·インウォンという独立運動家がいて、天安地域だけでなく全国的に万歳運動があったため “代表人物までではない” とのこと。
それで現在の有名税?は、後世の人々が意図的にユ・グァンスン烈士を3・1運動のアイコンにしたという推測で、その中心にはユ・グァンスン烈士の出身学校 “梨花学堂” がある。
今の “梨花(イファ)女子大学校”。
梨花学堂は1886年に設立された韓国初の女性教育機関で、梨花女子大学校の前身だ。
1945年の解放後、親日派を清算していた時期に梨花女子大学出身の数人が取り上げられていたが、親日派のイメージから抜け出すためにユ・グァンスン烈士を意図的に持ち上げ始めたということだ。
そこに、カトリック独立運動家に比べて活躍が不十分だったプロテスタント側でも、プロテスタント信者だったユ・グァンスン烈士を前面に出して自分たちの立場を固めようとしたという内容で、ユ・グァンスン烈士の死後、国語教科書に最初に登場するまでは大きく言及されなかったが、突然教科書に載ったのである程度は妥当に見える。
その教科書を作った人が梨花女子大学出身だったんだ。
現在は梨花女子高校に “ユ·グァンスン記念館” があるほどで、誇らしい”梨花人”と呼ばれているそう。
100年ぶりに取り戻した笑顔
もちろん数千、数万人の独立運動家の中で業績の軽重を問い詰めるのは無意味で、疑惑のように誰かの意図的な “英雄作り” かもしれない。
しかし明らかなことは、ユ・グァンスン烈士は堂々と独立運動のために献身し、幼い年にも死を恐れない勇気を見せたことは変わらない。
というわけで、2009年に5万ウォン札を初めて発行した時、最初の女性人物として有力視されたほど、韓国人にとっては依然として3·1運動を象徴する人物として残っているのだろうから。
当時採択されなかった理由が「顔がむくんで、悲しい顔なので拷問を受ける前の写真を見つけるのが大変だから」と明らかにしたほど、ユ・グァンスン烈士の写真は韓国人には有名だ。
2020年、あるネチズンがAIアプリを利用してユ・グァンスン烈士の本来の姿と笑顔を取り戻した時、多くの韓国人が胸を痛めた。
あれほど願っていた独立を見られないまま亡くなって100年ぶりの笑顔は、いつものように幼い姿だった。
苦労した顔のユ・グァンスン烈士の写真を見るたびに気の毒だった、今からでも思う存分笑え、あの明るい笑顔に多くの思いと感情が湧く、幼く見える顔だからもっと悲しくなるなどの意見が殺到したのは、
元の写真も、変わった後の写真もすべて韓国人の心を痛めるからだろう。
発行が延期された10万ウォン札の候補にも上がっているユ・グァンスン烈士が採択されたら、必ず笑顔でお願いするという意見のように、韓国人は今からでもあの17歳の少女がこれ以上傷つかないことを望んでいる。
遺言がとても印象的だったので、ユ·グァンスン烈士について調べてみたが、機会があれば西大門刑務所に訪問してみることをお勧め!ソウルの中心地にあるので遠くないよ!忙しい方は下記のVRリンクをご参照ください。