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映画『KCIA 南山の部長たち』レベルC “大統領の酒” マッコリとウイスキー & 消えた金炯旭の行方

映画・ドラマで学ぶ韓国
ペコム
ペコム

レベルCでは、映画『KCIA 南山の部長たち』を更に更に深く理解するために、もっと深堀りしていくよ~!

おはる
おはる

レベルA・Bの記事を先に読むことをオススメします!

朴正煕の愛酒・マッコリとサイダー、そしてシーバスリーガル

『KCIA 南山の部長たち』特別映像|男の絆

우리가 혁명을 왜 했어? 목숨 걸고 왜 혁명을 했냐고.
(俺たちがなぜ革命を起こしたのか?命をかけてなぜ革命を起こしたのか)

映画「KCIA 南山の部長たち」中

パクヨンガク(金炯旭)はキムギュピョン(金載圭)に聞いた質問だ。韓国に帰ってきたキムギュピョン(金載圭)が朴正煕に、「イアゴ」の存在を聞くシーンで「マクサ(막사)」を飲むシーンが出てくる。

ペコム
ペコム

マクサはマッコリ(막걸리)サイダー(사이다)を合わせて飲む爆弾酒の種類で、庶民が主に飲んでいたものだよ。朴正煕はマッコリ愛好家として知られている。

1961年、朴正熙はなぜ5・16軍事クーデターを起こしたのか。
金炯旭と金載圭、 そして車智澈まで。
国を守るべき若い将校たちは、なぜ軍事反乱に加わったのだろうか。

5・16クーデター当時(1961年)の朴正煕 (左・サングラス)と車智澈 (右)
出典:한경

日本による統治時代と朝鮮戦争後に廃墟になった祖国、そして祖国の国民をこれ以上飢えさせずに豊かに暮らせるようにするためにと、 彼らは軍事反乱にも屈せず、常に「救国の決断」を強調してきた。

1950-60年代の韓国は、本当に食べていくことすらも非常に困難な状況で、問題は1961年の5・16軍事クーデター直後、その状況がさらに深刻になったこと。


朝鮮戦争(1950-53)以降、急速に増加し始めた「戦後ベビーブーム世代」の登場で人口は爆発的に増え、1962年と1963年には米と麦の相次ぐ大凶作により餓死者が急増した。

これに対し、朴正熙政府はアメリカに小麦の援助を要請したが、軍事クーデター勢力である朴正熙政府を手なずけるためアメリカは拒否し、朴正熙政府は四面楚歌に陥ることになる。

ペコム
ペコム

ここが今の韓国の色んな文化を作った出発点になることが多いよ。特に、大きく捉えて「韓国のお酒がまずい理由」…。

具体的には、韓国ビールが味が薄い理由、希釈式方法による韓国焼酎がほとんどの理由、 日本酒のような蒸留式伝統酒が多く姿を消した理由、 小麦マッコリの流行、 様々な個人酒造業者が姿を消し、お酒の種類や製造業者が多様でない理由など…。

そこに韓国ラーメンの登場と食堂のステンレス茶碗使用、爆弾酒文化まで。

この全ての始まりは、まさに…

”  ”

米がなかった。食べる米が不足していたからだ…。

朴正熙政権は急いで酒税法を改正する。1963年にマッコリの場合、米を原料として使用することを全面禁止し、その後はうるち米や雑穀、芋デンプンの割合を国が指定した。その後、1966年にはうるち米の使用も禁止しなければならなかった。 このような状況で作られたのが小麦粉マッコリで、甘みを出すために完全に発酵させずに販売していたため、今の炭酸が入った、以前とは違う新しい味のマッコリが誕生したのだ。

1964年からはすべての酒精や焼酎の材料に白米や雑穀の使用を禁止し、伝統酒や焼酎、ビールの場合でも原料使用が制限されるようになり、芋デンプンを使った希釈式焼酎が人気を集めるようになった。麦芽含量の低い現在のビールが韓国人にとっては「ビールはもともとそんな味」となった。 水っぽかったりアルコール度数が低いので、他のお酒を混ぜて飲んでも良い。

しかも、依然として韓国は貧しい国だったので、とにかく安くて量も多くて、早く酔えるお酒を好むようになったのだ。「パリパリ(빨리빨리:早く早く)」の性格も影響があると思う。 早く酔うために、あるいは高いお酒がもったいないから、安いお酒を一緒に混ぜて飲む爆弾酒や暴飲のような飲酒文化にも影響を及ぼしただろう。

このように、食糧不足は社会文化全体に影響を及ぼし、米の消費を減らす「混食奨励運動」と「粉食奨励運動」も国家の最優先政策として行われ、1963年に日本の製造技術を利用して登場したのが韓国初のインスタントラーメンだ。

1963年 三養工業株式会社から発売された韓国初のインスタントラーメン「三養ラーメン」
出典:머니투데이 뉴스
おはる
おはる

昔は、日本人の中には「韓国は日本のラーメンの技術を盗んで作った」っていう主張をする人もいたんだけど、本当のところはどうなの?

ペコム
ペコム

本当は、明星食品の創業者の奥井清澄さんの “助け” で正式に韓国に入ってきたんだ。”助け” と表現する理由は、技術に対するライセンス費用や、一切のロイヤリティ費用なしで機械設備費用だけ支払って持ち込んだからで、この時の約束が「日本に逆輸出しない条件」だったから、韓国初のラーメン会社であるにもかかわらず、辛ラーメンの「農心」に比べて日本進出が遅かったんだ。

でも面白いことに、世界中で大ヒットした「プルタクポックンミョン(불닭 볶음면)」は我慢できなかったのか、2019年に日本支社を設立し、日本でも本格的に販売を開始したんだ。

대한뉴스 제 635호-혼식, 분식 장려
1967年粉食奨励運動国家キャンペーンの放送 出典:대한뉴스

それにもかかわらず儒教の朝鮮王朝の国らしく、「飢え死にしても食事は無条件にだ」という認識と食習慣がなかなか変わらなかったため、1969年からは行政命令として制限し始めた。

農林部の粉食奨励キャンペーンのポスター 
「お母さんの紛食の腕前、楽しく食べる私たち家族」
*2012年撮影


すべての食堂は、「無米日」といって水曜日・土曜日の週2日は米食禁止。
雑穀米を食べるようにと、学生たちに強要し、弁当検査まで。
1970年代には、食事の消費量と捨てられる残飯を減らすために規格化された「茶碗使用政策」も。

ペコム
ペコム

この時に登場したのが、今の韓国の食堂でよく見かける蓋がついているステンレス製の茶碗だよ。

年代別の茶碗の大きさ比較(左)と、最近販売されている茶碗の大きさ(右)
1976年の基準よりも高さが低くなった。
出典:조선일보


1976年からは直径10.5㎝、高さ6㎝の器にご飯は5分の4のみ盛り付けるという規定が追加され、1回違反した場合は営業停止1ヵ月、2回違反した場合は食堂の許可が取り消される強力な規制だった。

ペコム
ペコム

このように韓国では、米と食糧不足によって始まった色んな制度によって、今の生活にも影響を与えているものが多いよ。

こんな状況だったから朴正煕は、自分が庶民的な指導者であり、率先して行動することをアピールするため、マッコリを好んで飲んでいることを積極的に広報していた。青瓦台(大統領府)では節電のために夏はエアコンもつけないということをニュースで広報していた時代だった。


マクサ(막사)」はサイダーを加えて小麦マッコリの短所である甘さを補い、炭酸をより強く感じる飲み方で、実際にも朴正煕はマッコリとマクサをよく飲んだそうだ。

でもおかしなことに、朴大統領自身は主に小麦粉マッコリではなく、青瓦台専門の納品業者の「」マッコリを飲んでいたということだ。

朴正煕が好んで飲んでいた배다리マッコリ(米マッコリ)。青瓦台に14年間納品。
出典:고양신문

すべての国民が、国家の経済発展のために忍耐と犠牲を強いられた時期で、国民は大変な思いをしていたのに、自分だけは全てを楽しんでいたし、この実態がさらに明らかになったのが10・26事件現場で飲まれていた洋酒「シーバスリーガル」だった。

韓国で西洋式ウィスキーの製造分野が弱く歴史が短い理由に、酒税法の税金規定ウィスキー輸入禁止措置が挙げられる。普通は酒の量によって税金を課す場合が多いが、韓国の場合はアルコール度数によって税金を課したり、酒の製造原価に対して税金を課したりする酒税法のためアルコール度数が高かったり、製造価格が高い酒は販売が難しかったのだ。

当時の酒と関連した規定のほとんどの特徴は結局これだ。


「生活が苦しい国だから原料を節約しなければならないので、原料の価格が安いもの」


「経済発展に集中しないといけないから、国民が酒に溺れないように、低い度数のお酒だけを楽しむ」


このような時代像が反映されていた規定が残っているため、韓国特有のお酒文化が生まれ、輸入ビールが国産ビールより価格が安い「酒税逆差別」現象が起こり、近年の輸入ビール人気現象の原因となっている。

特に西洋式ウイスキーは、1990年までは「贅沢品」と規定され、全面輸入禁止品目であったが、朴正煕の死亡現場の写真に贅沢品の「シーバスリーガル」が登場し、国民は真実を知ることになったのだ…。


輸入ウイスキー自体が全面輸入禁止品目であったにもかかわらず、朴正熙は普段から「シーバスリーガル」を好んで飲んでいたことが明らかになり、その後「シーバスリーガル」は韓国で「大統領のウイスキー」、「朴正煕が死ぬ前に飲んだお酒」で人気を集めるようになる。

シーバスリーガル12年
出典:아주경제

朴正煕が飲んだシーバスリーガル12年産は、実は現在の基準で見れば、さほど高級ウイスキーではないにもかかわらず、韓国人には依然として高級ウイスキーの代名詞のように思われている理由だ。

「酒を飲んでいて頭を銃で撃たれた」ことを戯画化するために「※シーバスデーガル(대갈)」ともよく言われた理由は、朴正熙に対する国民の裏切り感からだろう。
※ シーバスデーガル(대갈) :デガル(대갈)=頭(대가리)と発音が似ているため

10・26事件を通じて国民は単に大統領・朴正煕の死だけでなく、彼の私生活を知れたことが歴史的にはそれなりに大きな意味があったと考える。

若い女性歌手、美貌の女子大生、シーバスリーガルとスイスの秘密口座…。いつも 国民、国民、ひたすら国家の経済発展を叫びながら、庶民のふりをすることに熱心だった独裁者の実体が明らかになり、結局国民だけが苦労していたということを知ったからだ。

指導者に対する怒りと不信、抵抗を悟らせてくれる象徴のような単語なのだ。

「 国民は小麦粉マッコリ、大統領はシーバスリーガル 」

マッコリではなくウイスキーを飲む朴正煕
出典:진실의길

カンボジアとKilling Fields

캄보디아에서는 100만명도 죽였는데
우리가 만명 십만명 밀어버린다고 뭔일 나겠어요?!
(カンボジアでは100万人も死んだのに、
我々が1万、10万(タンクローラーで)轢いたって問題になるか?)

映画「KCIA 南山の部長たち」中

警備室長・カクサンチョン(車智澈)のこんな発言が頻繁に登場するが、一体カンボジアでは何が起きていたのだろうか。

Killing Fieldsとはカンボジアで1960年代から70年代の間にあった大量虐殺事件で、第2次世界大戦中にドイツのナチスによるユダヤ人虐殺以降、全世界に衝撃を与えた大量虐殺事件だ。


狭義では、1975年、ポル・ポトが代表する左翼共産主義の急進武装勢力が政権を握ってから、虐殺の程度がさらにひどくなったので、ポル・ポト政権時代の大量虐殺を呼ぶ表現でもある。


1979年ベトナムの侵攻で政権が没落するまで、約3年6ヵ月のポル・ポト政権の間、政府に反対する勢力を皆殺しにしたが、下の写真のような大量虐殺の埋葬地が明らかになった場所だけでも約2万3,000ヵ所、遺体が確認された数字だけで130万体、埋葬されずに捨てられた遺体まで含めると、少なくとも200万人以上が殺害された事件だ。


1960年代から全体の期間には、約300万人以上が虐殺されたと推定されている。

カンボジアの大虐殺 出典:libcom.org

反政府勢力だけでなく、ただ眼鏡をかけているだけで知識人だという理由で家族3代にわたり殺してしまうほどの残酷な虐殺であり、写真のような骸骨山、骸骨塔などの多くの写真が公開され、人類は驚愕を禁じ得なかった。(参考画像はその中でも、衝撃が弱い写真を選んだので、検索する場合は注意が必要!)

대한뉴스 제 1080호-캄보디아의 대량학살
1976年の韓国政府のニュース 共産主義者の非人道的な行動を批判している

共産主義者の残酷さを非難するために、朴正熙政府時代に国民向けの広報もした事件であるにもかかわらず、 朴正熙や車智澈は、彼らと同じ行動をしようとしたのだ。朴正熙大統領とその周辺の人々が、国民と反政府勢力に対する認識がどのようなものだったのか分かる。

皮肉なのはこのカンボジアの事態に、アメリカも一定部分の原因と責任があるということだ。直接的にはアメリカのベトナム戦争の影響を受けた事件であるため、個別的な出来事に見えるが全てつながって一つの”世界史”として集められている。

時期を見てもお分かりだと思うが、1970年代前半のベトナム戦争や米軍の撤収、1973年の第4次中東戦争とオイルショック、1979年のベトナムのカンボジア侵攻、ソ連のアフガン侵攻、イラン革命まで…。様々な複雑な事件が絡み合い、地球村は言葉通り大混乱の時期だった。


特に1979年の場合、世界史と繋げてみると本当にとてつもない事件が発生した時期だから、東洋の小さな国の韓国、そこの独裁政権1つなんかは米国や西側陣営の立場ではあまり気にすることができなかった時期だった。 韓国以外にも気を使うことがあまりにも多かったのだ。


そのようにアメリカの無関心なのか無視なのか分からない混沌とした時期に、朴正煕は暗殺され、新しい独裁者が12・12事態(クーデター)に成功したのだ。全斗煥(チョン·ドゥファン)の新軍部勢力の立場では幸いかもしれない「千載一遇」の機会だったのだ。 アメリカがもう少し余裕のある時期だったなら、金炯旭の望みのように、アメリカの力を利用して新しい政権に変わったかもしれないし、それとも金載圭の死刑だけでも阻止したり遅らせることができたかもしれないからだ。

1979年のあの時期の出来事が新たな始まりとなり、2021年現在のアフガニスタンとウクライナで行われているニュースを見ていると、”歴史”の面白さと恐ろしさにもう一度気づかされるようだ。

1975年ベトナム米国大使館から撤収する米軍ヘリの姿と、2021年アフガニスタン米国大使館から撤収する米軍ヘリの姿を比較するBBCニュースツイッターの写真。
出典:조선일보

オイルショック危機とベトナム戦争、そしてイラン革命

ペコム
ペコム

個人的に1970年代を貫く核心キーワードは、ベトナム戦争よりも、第4次中東戦争だと思う。
イスラエルと中東諸国の4回目の戦争は1ヶ月も経たないうちに終わったけど、これによって第1次オイルショックが発生し、この事件で地球全体が影響を受けたからだ。

韓国の消費者物価上昇率(赤)と経済成長率(青)比較
出典:매일경제 신문

映画の中の朴正煕政権の韓国だけを見ても、1973年に3%台だった物価上昇率が、1974年と1975年には毎年25%以上の上昇を記録してしまったからだ。 重化学工業を中心に産業構造を変えつつあった韓国にとっては、ものすごい打撃であり危機だった。

上で説明したような食堂のステンレス茶碗使用文化がさらに強要されたし、この時期に建てられたアパートのエレベーターは、電気の節約のために各層運行する構造で設計されているものも多い。また、物価急騰によって資本が不動産に移動することによって今のソウルの江南不動産神話が始まり、様々な集中と社会格差問題が発生する始まりの時期でもあるからだ。

奇数階にしか止まらないエレベーター 今でも残っている 出典:고파스
おはる
おはる

エレベーターの「各層運行」って何?

上の写真は奇数階しかボタンがないね。

ペコム
ペコム

簡単に説明すると、電気を節約するためにエレベーターが全ての階に止まらないようにするんだ。エレベーターの運行回数と運行距離を減らすためにね。

必ず奇数階だけ運行したり、2階ごとにとまるわけでもないんだけど、ほとんどが1階からスタートするから奇数階だけ運行するケースが多かったんだ。最初から、2階~4階は歩いて登らないといけない建物もあったよ。夜の屋外看板の電気を消す、夜勤を減らすといった節約運動もあった時期で、今では想像も出来ないね。

こんな影響もあって、これまで国の発展のためにはあらゆることに耐えなければならなかった国民の政府に対する反発が激しさを増し、反政府運動と反独裁運動が一層激しくなってきた。 独裁は我慢できても、空腹は我慢できないから。

国民の不満と反発を政府はさらに統制しようとしたが、10・26事件の始発点になり得る金泳三とYH貿易会社のデモまでは統制できなかった。


それが結局、釜馬抗争の原因となり、釜馬抗争は10・26事件につながるが、この流れを世界史に置き換えると、第1次オイルショック以降、世界が大恐慌に陥っている時、中東をはじめとする産油国では原油価格の急騰による莫大な富を蓄積していた。

   1979年イラン革命前のイランの女性たちの服装と1960年代のイランの道路の様子
   (イランも一時期は資本と余裕があった親米国家だった)
出典:Daily mail Travel News

最大産油国の1つであるイランの場合も、このような収益の急増により親米政権であったファラビ政権の不正腐敗が深刻化し、不正腐敗に対する反発は1979年のイラン革命の原因となり、親米国家であったイランが米国と対立する今の姿となったのであり、やはり主要産油国だったソ連の場合も、収益増大による国家経済力には自信があったから、アフガニスタン侵攻という無理をしたのが、今の2021年のアフガニスタンとウクライナ事態まで影響しているのだ。

単に原油価格の高騰を除いても、第4次中東戦争で敗戦危機だったイスラエルを全面的に支援したアメリカは、戦争の相手である中東のほとんどの国からそっぽを向かれ敵になってしまったから、9・11テロをはじめとする各種テロと、反米デモの根本原因の1つが第4次中東戦争になるわけだ。


このように、第4次中東戦争と第1次オイルショックは世界史の多くを変えたが、もう一度ベトナムの話をすると、オイルショックによる経済危機は、アメリカ内部の問題ですでに脱出口を探していたアメリカが、ベトナム戦から撤退させる主なきっかけの1つとなった。

アメリカがベトナムから撤退すると、ベトナムの共産化を牽制するためにカンボジアに立てた親米勢力が共に崩壊し、ポル・ポトの執権が可能になり、これがKilling Fields大虐殺の端緒となり、それによって結局ベトナムがカンボジアを侵攻し、以後10年以上の間カンボジアを占領するようになったストーリーが続くのだ。


それぞれ違う主人公のマーブル映画シリーズを集めて繋げば、マーブルの世界観の大きな面白さが増すように、人類の歴史も同じだと思う。

ペコム
ペコム

この時期について関心のある人には、1979年のイラン革命初期のイランとアメリカの状況を見ることができる映画『アルゴ(Argo)』(2012)がお勧め。

アルゴ(2012) 出典:映画.com

1979年11月4日にイランで起きた実話の事件を背景にしているが、同じ時期に韓国で発生した10・26事件と12・12事態はアメリカの立場から優先順位を下げられたかもしれないと思うだろう。

アクションや爆発のような派手な場面はないが、映画中ずっと緊張感が維持される映画なのでお勧め!

「私が金炯旭を暗殺した」

このように世界史という大きな渦の中で静かに消えていく人物は金炯旭ではないかと思う。運もなかったっていうか…。

彼の失踪と死についてあまりにも明らかなことがなかったから、韓国内でもいろんな説があっただけで、彼の名前すら国民の記憶から消えそうだった2005年4月、ある時事雑誌のヘッドラインに、 金炯旭の名前が復活する。

「 私が金炯旭を暗殺した 」

当時DAUMニュース記事に載った雑誌の表紙
「私が金炯旭を暗殺した」
出典:DAUM NEWS

当時の出版社である時事ジャーナルの記事ページ→

26年ぶりに自ら現われて犯人を自任した人は、元中央情報部所属特殊工作員チョ氏。
この男が明らかにした金炯旭殺害事件の顛末はこうだ。(下記の内容は映画の台詞のように処理? )

自分は(私は)北朝鮮から韓国に来るために日本でスパイ教育を受けた後、韓国に入り中央情報部に発覚して懐柔され、韓国に転向した中央情報部北派担当の特殊要員だった。1979年、朴正煕大統領の指示で他の要員と一緒にパリのカジノの前で金炯旭を拉致し、前もって踏査しておいたパリ郊外の養鶏場の粉砕機に入れて遺体を処理した。

内容は単純だったが、ショッキングな内容だったため、国民の関心を引くには十分だった。


養鶏場粉砕機

この単語が与える効果は莫大で、今でも多くの韓国人は金炯旭の最後の姿をこの主張に基づいて想像している。 映画ももちろんこの説を採択したものだ。

2005年MBC番組「PD手帳」のパリ現地取材の様子
出典:오마이뉴스

あまりにも刺激的で興味深いテーマだったので、当時、様々なメディアが我先にと金炯旭失踪に関する放送と記事が報道され、様々な議論と疑惑が提起されていた。

まずはじめに「北朝鮮による拉致説」だ。
1979年の失踪初期、最初に登場した仮説で、金炯旭が中央情報部長を最も長い期間在任した人物で、莫大な数の北朝鮮スパイを逮捕したため、海外に居住する元中央情報部長は北朝鮮の除去対象の第1位だったという説だが、捜査の結果、北朝鮮との関連性はないことが明らかになった。

次に「烏鵲橋(오작교)作戦説」だ。
冷戦時代、国家の重要人物である中央情報部長でもあったし、当時大統領と対立していた人物が行方不明になったということで、フランスと韓国の両方で大きな話題になり、多くの韓国の記者もパリで取材していたが、その時パリにいた中央日報の記者が受け取った一通の手紙によって知られた説だ。

「金炯旭は朴正熙大統領の指示を受けた団体によって殺害され、その作戦の名前は”烏鵲橋(오작교)”だ」
(烏鵲橋説話:韓国の伝統的な祝日のうち、カササギが橋を作り2人の恋人に出会えるという話がある祝日がある)

「烏鵲橋(오작교)」は、中央情報部の作戦名で、情報部要員が金炯旭をパリのアジトに連れて行き麻酔をかけた後、外交用の袋の小包に偽装して大韓航空を通じて韓国に送り、大統領府の地下室に連れて行き、朴正熙大統領が直接、銃で2発撃って殺したという内容。

状況上、可能性が最も高く具体的だが、証拠や証人が何もなかったため、捜査は依然として迷宮入りしている。

誰かが手紙を記者に送ったこと自体もミステリーであったため、「中央情報部の内部者の良心の告白」や「フランス情報部やアメリカからヒントを与えたのだ」という仮説まで加えられ、余計混乱し、捜査は成果なく数ヶ月で終了した。

1980年2月初め주섭일中央日報パリ特派員が受け取った手紙の原本。全8ページ。
フランス語で作成されており、この文書を関連事件では「コリアレポート」と呼ぶ。
出典:선데이저널

そうやって忘れられていた2005年に新たな証言が登場したのだ。


3番目の「養鶏場殺害解説」。
中央情報部要員だった彼の主張によると、 金炯旭と親交の深かった韓国女優をだしに、金炯旭をパリに来るよう誘い、カジノ前のレストランで金炯旭を拉致した後、パリ郊外の養鶏場で粉砕機にかけて殺したということだが、実際にも前職要員だったので信憑性が上がるしかなかった。

映画の中のデボラ・シムのキャラクターは、まさに女優とロビイストのSUZI PARK THOMSON、そして朴東宣を合わせて作り出した人物ではないかと思う。 パリ失踪当時の役柄に関するストーリーもこの部分を反映したものだ。

しかし、元要員の具体的な陳述にもかかわらず、この証言もまた具体的な証拠がなかったため、複数のメディアで色んな分析を試みた結果、2005年5月に放送されたMBC放送局の番組「PD手帳(PD수첩)」の中で、この要員とともにパリに行って現場検証を行ったが、根拠となるような追加情報は見つからなかった。

むしろ、この元要員が証言の中のいくつかの場所と養鶏場の位置などをきちんと覚えておらず、パリの地理について詳しくないようだったし、事件当時、フランスにはこの男が主張する大きさの粉砕機がなかったという結論で終わったため、この仮説はほとんど終わりを告げているようだった。

しかし、2ヶ月後の2005年7月に放送されたSBS放送局の「それが知りたい(그것이 알고싶다)」では、自分たちの取材の結果、証言に登場するサイズの養鶏場粉砕機が当時フランスで普及していたという証言を通じて、MBCの「PD手帳」の内容に真っ向から反論した。また、最初に報道された「時事ジャーナル」でもMBCの主張に対する反論記事が掲載され、報道機関のプライドをかけた争いとなり、さらなる国民の混乱を招いていた。

영화 '남산의 부장들' vs PD수첩
2005年5月3日に放送されたMBC「PD手帳(PD수첩)」  金炯旭失踪事件のパリ追跡放送。
[ENG] 내가 김형욱을 죽였다?! 김형욱 전 중앙정보부장 실종사건의 진실은? | 그알 캐비닛
2005年7月23日に放送されたSBS「それが知りたい(그것이 알고 싶다)」 金炯旭編 SBS公式YouTube要約

ちょうど2005年のこの時期は、金大中(キムデジュン/김대중)政権に続いて盧武鉉(ノムヒョン/노무현)政権で、「過去の歴史の再確立」のために各種疑惑のある事件の再調査と真実究明について、政府レベルで様々な活動が行われていた時期だった。

特に、1年前の2004年に設立された「国家情報院(元中央情報部,国家安全企画部)過去事件真実究明発展委員会(以下真実委)」が活動中であるため、国民の論争と混乱を防ぐため2005年5月に急いで内部調査結果を発表した。

2005年5月27日 国家情報院発展委員会の中間調査発表の様子  
出典:통일뉴스

「真実委」が再調査して発表した 金炯旭失踪事件に関する公式発表内容は以下の通り。

当時、中央情報部長の金載圭は、自分の軍隊時代に副官長だった駐フランス公使の李相烈(イ·サンリョル)氏に指示して、金炯旭をパリに誘い、パリで研修中の中央情報部要員シン氏と李氏を動員して、東欧出身の暗殺者2人を10万ドルで雇った。

10月7日の夜、カジノでお金を失った金炯旭が李相烈公使にお金を貸してほしいと要請すると、家主を紹介すると言って車に乗せて拉致した後、パリ郊外の山に連れて行った。

東欧からの使用人が、拳銃7発を発射し金炯旭を殺害して落ち葉で覆い、要員たちに任務完遂の報告を受けた李相烈公使は韓国の金載圭部長にこれを報告し、帰国した要員は金載圭部長から巨額の現金入り封筒を受け取った。

朴正熙大統領が直接指示したかどうかは確認されていない。
[KBS 역사저널 그날] 과거사위가 밝혀낸 김형욱의 최후ㅣ KBS 201215 방송
2020年12月15日KBS「歴史ジャーナルその日(역사저널 그날)」で放送された金炯旭事件(「真実委」の発表が主な内容として制作)

しかし、上記のような真実委の発表にもかかわらず、むしろ議論は激しくなった。

マスコミ報道で疑問を持った点は、
●重要人物を除去するために暗殺者を雇用したが、殺害当時、情報部要員たちは殺害場面を直接確認せずに車で待機した点
●金炯旭の殺害や拉致そのものが外交問題に飛び火することを懸念した時期なのに、金炯旭の遺体を野山に置き、落ち葉で覆ってばかりいた点
●殺害の証拠物である銃器を山で失ったと主張する点
など… 専門的な暗殺作戦と見るには、あまりにもずさんな点が多いということだ。

関係者たちの証言を中心に調査した発表内容によると、結局、殺害に対する自分たちの直接的な責任を免れるための「つぎはぎストーリー」を作ったため、おかしな点が多いというのだ。

特に、関係者の大半が前・現職の中央情報部関係者であるため、自分たちの責任逃れと、情報部組織のために真実を隠していると疑われた。

1979年 金炯旭失踪当時の新聞記事
出典:경향신문

2005年のこの議論に火をつけた元要員の証言と「真実委」の発表、そして事件当時、中央日報の記者が受け取った手紙の内容を総合してみると、朴正熙大統領の無言の圧迫や直接指示があったと推定され、この圧迫や指示を受けた 金載圭情報部長は李相烈公使に指示を出し、李相烈公使あるいは親しい女優の招待でパリを訪問した金炯旭は、1979年10月7日深夜、パリのカジノで最後に目撃された。中央情報部要員に拉致された金炯旭はパリ郊外で殺害された。この程度は推定できると思う。

この話を調べてみるほど、より複雑でミステリーになるのは、1980年2月にアメリカ国務省が駐韓アメリカ大使館に送った文書「週間動向報告書」には、アメリカの調査の結果、金炯旭は1979年10月9日にパリから韓国人男性1人とスイスのチューリッヒを経由してサウジアラビアのダランに到着した後、行跡が消えたという内容があるからだ。

金炯旭がアメリカにいた時、スイス銀行から密かに引き出されるお金の金額まで把握していたアメリカ政府の文書だから、どうも頭が痛い。 こうなると、新たな仮説の1つである、スイスで秘密資金をすべて引き出した後「姿をくらましてまだ生きているという説」も可能性はありそうだから。

アメリカCIA「ズボンの中から90万ドルを出せ」
アメリカの空港から90万ドルを密かに持ち込もうとして摘発された金炯旭に関する中央日報の記事
(写真は米聴聞会当時の金炯旭)出典:중앙일보

結局、すべてのことは、多くの証言や仮説で最も中心的な役割を果たしている李相烈元フランス公使が真実の鍵になるしかないが、彼は自分の関連は認めたが、具体的な供述をすべて拒否し、沈黙を守った。

そして1年後、2006年4月に李相烈公使は亡くなり、真実は歴史の中に消えてしまった。


朴正熙大統領も、金載圭部長も、金炯旭部長も、
何への忠誠だったのか、
誰のための行動だったのか、
何のための沈黙だったのか、
意味の分からない話だけを残したまま消えてしまったので、
私たちはまだ真実を求め、望み、知りたいと思うのだ。

今年の秋もその日が来ると思い出すだろう。

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