前回の記事ではソウルの中心にある光化門の変身について紹介したよ!今日は雄大な規模を誇った国立中央博物館(元・朝鮮総督府の建物)が消えた過程について話すよ!
簡単ではない選択
韓民族の遺物資料が展示されている日本総督府
前回の記事では、建物の歴史性に対する甲論乙駁によって撤去決定を簡単に下すことができなかったと話した。
歴史性を除いても建物自体が大きすぎたし、撤去することになれば直ちに国立中央博物館は行く所がないから、そこに収蔵された多くの遺物資料はどうするかという問題が生じた。
だからといって博物館として使い続けるとは、「長年の先祖の誇りが込められた歴史文化財が日帝の総督府の建物にあるということはアイロニーだ」という言葉のように、国立中央博物館として維持するのもまた別の恥になってしまう状況。
結局、最後の軍事政権だった盧泰愚(ノ·テウ)大統領も生半可に乗り出すことができず、次期政権に決定を先送りした。
景福宮と光化門の復元問題のためにも、国立中央博物館(朝鮮総督府)を廃止すべきだということには異論はなかったが、建物の撤去か移転かに学界の意見も分かれた。
国民も心情的には直ちに撤去を望んでいるが、あの美しくて雄大な近代建築物に対する心残りもあったからだ。
このように韓国での世論が分かれ、韓国政府も莫大な費用問題で数年間簡単に決定を下せずにいる間、このニュースは日本にも伝わり、
“日本政府が撤去に反対した”
“日本政府が移転費用を払うから移転してほしいと要求した”
“日本政府が日本に持っていくと要求した”
などの非公式の情報がニュースに登場し始めた。
そんな中、日本近代建築史研究団体の明治建築研究会が、“両国間の不幸な歴史ではあるが、東アジア近代建築史上価値の高い建物” と保存を促し、世論は急反転する。
日本で保存を要求したことが知られ、韓国の世論が悪化したのだ。
「日本が望むの?」、「それはできない!!」っていう流れというか(笑)
撤去か移転かと悩んでいた民心が「全部壊せ‼」に急反転した時(笑)
金泳三(キム·ヨンサム)大統領だけが可能だったこと
朴正熙(パク・チョンヒ)の独裁に抵抗した金泳三(キム・ヨンサム)は、1969年にテロにあったことがある。不審者が強力な硝酸を金泳三に撒いたが、乗用車のドアが閉まっていて幸い命拾いした事件。
この事件の翌日、金泳三は国会で「私が死んでも独裁と最後まで戦う」と叫び、男前だった。
このブログiumでも紹介した映画『南山の部長たち』と『ユゴ大統領有故』の解説記事を読んだ方は1969年当時、韓国中央情報部長が誰なのか分かるはず!そしてこのテロは誰の指示だったのかも分かるよね?全てが繋がっているよ(笑)
1954年に20代で韓国最年少国会議員になって以来、約40年間、軍事独裁反対と韓国の民主主義のために闘争した人が1993年についに大統領になった。
長くて長かった韓国の軍事政権が終わった瞬間。
しかし、大統領1人が変わったからといって変わることはない。 しかし、彼は変えた。 たった10日で。
大統領になって10日も経たない3月8日、突然、陸軍参謀総長と機務司令官(元保安司令官)を解任させた。 4つ星、3つ星の最高位層陸軍将軍を解任。
そういうこともあり得るんじゃない?と思うだろうけど、わずか10日前まで軍事政権だったことを考えなければならない。軍隊のクーデターが起こり得る状況。
やっぱりこのブログiumでよく見た写真が登場するよね? 1979年12・12クーデターを起こした全斗煥(チョン·ドゥファン)のあの時の役職が “機務司令官(旧保安司令官)” だ。
『南山の部長たち』と『ユゴ大統領有故』でキム·ジェギュと一緒にいた将軍が “陸軍参謀総長”。
ここまで来たら、金泳三大統領がなぜ2人を解任したのか分かるだろう。韓国軍隊で最も大きな力を持った2人を解任させたのだ。
全斗煥と盧泰愚に忠誠を尽くす韓国軍隊の最も強力な私組織 “ハナ会” のトップを片付けたのだ。
文字通り電撃的で誰も予想できなかったことなので、ハナ会のメンバーさえ状況把握に忙しくしている間、金泳三は4月2日には特戦司令官(星3つ)、首都防衛司令官(星3つ)を解任。
全斗煥と盧泰愚が経験してきた役職で、韓国軍隊の核心部隊だよ。
これにとどまらず、4月15日には軍団長4人(星3つ×4)、師団長8人(星2つ×8)に全ての軍隊人事を管理していた国防部人事局長と陸軍本部人事参謀部長も交代。 その後、残りの高官まですべて除去。
就任1ヵ月で韓国軍で40個を超える星(将軍)が消えた歴史上、空前絶後の事件だ。
“ハナ会粛清” 事件と呼ぶが、金泳三だったから可能だったことで、金泳三ならではのスタイルだった。
そして8月にはもう1つの電撃作戦を実行した。“ 金融実名制 ”
金融実名制は、これまで積もってきた韓国経済の不正と腐敗を根絶するために、すべての金融取引は実際の名前だけで可能にするものだ。
仮名で隠しておいた秘密資金や闇のお金を全て使うことができないようにしたものだ。
この制度も事前に何の予告もなく急に施行され、韓国国民も驚いた。
実名制以前は仮名でも口座を作って使用可能だったが、実名に変わり追跡が可能になったという。
このような状況の中、8月9日に金泳三大統領が国立中央博物館を撤去すると発表したため、保存を望んだ韓国内勢力や日本側の立場では足元に火がついたのだ。
“金泳三なら本当にやる人”だから。それも早く!(笑)
国立中央博物館を撤去するという知らせに、日本人観光客と韓国に修学旅行に来る学生が急増し、その姿がニュースを通じてよく報道され、韓国人の世論は完璧に反転したのだ。
自分たちの過去の栄光を記憶するために訪問して写真を撮る姿が日本人にとっては当然かもしれないが、ソウルの真ん中でその場面を見守らなければならない韓国人とっては現在進行形の恥であり、嘲弄として受け入れられるからだ。
そのままにしておいてほしい考えだが、韓国人から見ると良くないと思われる。
当時のある日本人観光客のニュースでのインタビュー
本当に爆破したのか?
撤去過程GIF集
金泳三大統領の推進力に国民の世論まで加勢し、もう出来ないことはない。
1995年8月15日、光復50周年記念式を迎え、韓国の国立中央博物館、朝鮮総督府の建物は撤去を開始した。
中央ドーム尖塔分離に先立ち、当時の文化体育部長官は護国英霊たちに告げる告由文を朗読したが、内容は以下の通りだ。
우리 민족의 언어와 역사를 말살하고 겨레의 생존까지 박탈했던 식민 정책의 본산 조선총독부 건물을 철거하여 암울했던 과거를 청산하고 민족의 정기를 바로 세워 통일과 밝은 미래를 지향하는 정궁 복원 작업과 새 문화 거리 건설을 오늘부터 시작함을 엄숙히 고합니다.
我が民族の言語と歴史を抹殺し同胞の生存まで剥奪した植民政策の本山である朝鮮総督府の建物を撤去し、暗鬱な過去を清算し、民族の精気を正し、統一と明るい未来を目指す正宮復元作業と新しい文化通りの建設を本日より開始することを厳粛にいたします。
約1年以上行われた撤去作業の末、1996年11月13日に最後の部分が撤去され、景福宮の前に立ちはだかっていた日帝恥辱の象徴である朝鮮総督府の建物は完全に撤去され、70年の歴史とともに地上から消えた。
その後、光化門の元の位置への復帰と景福宮の復元作業は、2022年現在も行われている。
学校で国立中央博物館に見学に行った世代の立場では、当時は少し残念だった。あの高いものをどうして壊すのかと思って(笑)
爆破についての話
多くの韓国人が当時国立中央博物館が爆破されたと思っている人が多い。そして、若年層が利用するインターネットには爆破したという書き込みが最近でも良く見られる。
もちろん当時は解体方式か爆破方式かについても議論があった。象徴性を考えて爆破しようという意見も多かったからだ。
解体か移転かの議論のように、解体決定以後は撤去方式に関するニュースがよく出てきたので “爆破” という単語をよく耳にすることが多かった。
それで多くの人は間違って記憶しているようだが、すぐ近くに光化門と景福宮という代表文化財があるため爆破できない状況だった。
尖塔部分だけ爆破したと主張する人もいる。これは当時の記念式典の効果を高めるために演出した場面を誤解したせいか、確率が高い。
赤い閃光に煙まで出たから、あの場面だけ見て爆破だと思ったかもしれないが、機械式切断方法を使った撤去だった。
その他にもその1年前の1994年に、ソウル南山(ナムサン)にあったアパートを自然景観回復のために爆破で解体したことがあったため記憶の混同がありうる。この場面もテレビで中継された。
「日本の癖を直そう」
そこにこの爆破説が定説のように受け入れられた契機の1つは “金泳三” のためだろう。
“金泳三の性格なら爆破も十分可能だな” という考え。
この考えをさらに煽る事件が、当時の金泳三大統領の発言のためだ。
일본 놈들의 버르장머리를 기어이 고쳐놓겠다!
金泳三
日本のやつらの悪い癖を必ず直してみせる!
金泳三大統領がこの発言をして1日で爆破させたという説。
誰が見ても話にならないのに、金泳三の性格と推進力に想像力を加えた話だと思う(笑)
しかし、この発言自体は1995年に実際にあった発言だ。
1995年10月に江藤隆美総務庁長官が「韓日併合条約は、法的に有効だった」、「植民地時代に日本が韓国に良いこともしたのに韓日併合を無効と言えば国際協定は成立しない」と妄言を吐き、それに対した発言で波紋を呼んだ。
ある国家の首脳が他の国に “버르장머리(ボルジャンモリ:悪い癖)” を直すと言ったから韓国国民の立場ではすっきりしたが、韓日両国で大騒ぎだった。
当時、日本のマスコミと政界では “버르장머리(ボルジャンモリ:悪い癖)” を日本語で何と翻訳すべきか大混乱だったという。
日本語で当時の礼儀をわきまえない者に礼儀を正す行為と解釈したり、礼儀なしを直すなどと解釈したりもしたというが、原語の感じとはかなり違う。
とても厳格な大師匠が生意気な坊やをひどく怖がらせる感じの単語というか…。完璧な表現が難しいんだ(笑)
このように爆破に関する説は、当時の様々なニュースと金泳三大統領の破格的な発言、それに対する強烈な認識と様々な映像などが合わさって、多くの韓国人も間違って認識されていると見るべきだろう。
今でも見ることが出来る朝鮮総督府
爆破説のために朝鮮総督府の全てが消えたと誤解している人もいる。
分離された尖塔は撤去進行過程で一般に展示された後、日本植民地時代に3·1独立運動があった韓国天安地域に位置する独立記念館の屋外に移転展示されている。
総督府撤去部材、中央ドーム尖塔、柱上部などの解体副産物で構成された小さな公園形式の展示で、最初の撤去前の論議の1つだった恥辱の歴史は忘れないという意味だという。
保存して歴史教育資料として活用すべきだという意見を反映し、一種の “放置展示” を通じて、我々がこれ以上この建築物を管理しないという意図を込めた設計。
展示物の一部は地面に埋まっていたり、あちこちにみすぼらしい形で放置されているため、展示空間と言うには生半可な感じがし、日が短い冬になると夕日に隠れて物悲しい風景まで感じられる。
これらすべてが “演出” というのが独立記念館側の説明だ。
展示空間を人が多く訪れない西側に位置させ、夕日(沈む太陽)を通じて帝国主義の没落を象徴する方式で展示演出し、メインの尖塔もわざと地上より5m低くして韓国国民が見下ろせるように配置して意図的に冷遇する場所だ。
この過程で引越しする受難を経験した韓国の国立中央博物館は、韓国の新しい未来を描いていくという意味を込めて、現代的なデザインとして新築され、2005年になってようやく開館することが出来た。
2回にわたって韓国のソウル、その中心にある光化門に関する話を紹介した。
その場にあることと、その場から消えたことについての話。
それが “歴史” を学ぶ理由だろう。
皆さんの多くがよく訪問した場所だと思うが、現在は見えない韓国の近代史と現代史が一緒に盛り込まれている話を知り、再び訪問することになれば、写真1枚ももっと意味があると思う。
光化門の映像で始まった今回のシリーズは、国立中央博物館の映像を鑑賞しながら終わるよ。みんなお疲れ様~!