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#1 朝鮮時代にもWikipediaがあった!? 朝鮮王朝500年、記録オタクの歴史

韓国史コラム

Wikipediaのロゴの変遷 出典:한겨례신문

2022年を生きる現代人の必需品インターネット。人類最高の発明品の1つ。
今や中毒や炎上を心配しなければならないほど、さまざまな情報で我々の人生を退屈させないYoutubeやWikipedia。

その中でテーマを1つ選んだら、人生の何時間があっという間に奪われちゃうという魔法の”Wikipedia” はみんな知ってるよね。

もし、その “Wikipedia” が朝鮮時代にもあったとしたら?

今回はいくつかのエピソードを通じて、ハングルとともに朝鮮のシンボルであり、朝鮮時代最高の遺産として選ばれる<朝鮮王朝実録>と、その記録を書く「史官」についてお話するよ!

「朝鮮王朝実録」 出典:한국역사문화신문
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恥ずかしい太宗と勇敢な史官・閔麟生の論理バトル

太宗が狩りの途中、馬から落ちたが大きな怪我はなかった。
左右を振り返り「史官にこのことを知らせないようにしろ」と言われた。

太宗実録7冊、太宗4年1404年2月8日 己卯4番目の記事

※太宗(태종/テジョン)…朝鮮王朝第3代目王
※史官(사관)…歴史を記録し、編修する官吏

<朝鮮王朝実録>  出典:조선왕조실록

<朝鮮王朝実録>を象徴的に表現する内容だ。
当時、朝鮮は日照りが続き民衆は大変な時期だったが、鷹狩りが趣味だった太宗は我慢できず、こっそりと狩りに出かけたが、史官が覆面をかぶって後をつけ、密かに記録した内容だ。

太宗が1日に何回咳をしたのか、太宗が王宮を歩いている途中で足を踏み外しそうになり、「恥ずかしいから、これは(実録に)書かないように指示した」ということまで記録するほど、史官の閔麟生(민인생/ミン・インセン:1373~?)は王の行動・言動をひとつひとつ記録することで有名だった。

この史官の記録をもう少し紹介しよう。


太宗1年、閔麟生が王の個人執務所(主に休息を取る空間)である「便殿(편전)」の出入りを要請したが断られ、密かに忍び込んだことが太宗にばれた時の対話。
(太宗実録1冊、太宗1年1401年4月29日丁亥1番目の記事)

太宗
太宗

君はどうやってここに入ってきたのか?

閔麟生
閔麟生

王が許可してくださらなかったので、密かに入ってきました

太宗
太宗

ここは君が入れない所だ!

閔麟生
閔麟生

いくら便殿でも、大臣たちもよく訪れて業務もしているのに、史官がいなかったらどのように記録するのですか!

太宗
太宗

ここは私が休む所なので入って来られないのが正しい。史筆は正しく書かなければならない(歴史を記録する者が不法行為をしてよいのか?)。 たとえ宮殿の外にいたとしても、私の声が聞こえるでしょう。外で書いても良いと思うが…

閔麟生
閔麟生

一応そのようにしますが、私が正しく書かなくても、”天が上にある(臣如不直 上有皇天)”ということを忘れないでください。

このように閔麟生は太宗に警告したのだ。言い争いにも負けない史官…(笑)

太宗が便殿で業務をしている時、 誰かが外から密かに覗いているので、
「あいつは誰?」と聞くと、やはり今回も閔仁生だった。
我慢しきれなかった太宗が閔麟生に、六衙日(육아일:月に6度ある王の公務)以外は、
史官の宮廷への出入りを禁止させた。(最大限出勤しないようにという意味)

太宗実録2冊、太宗1年1401年7月8日乙未2番目の記事

この事件以降、太宗は怒りが収まっていないのか、3日後の実録の記録には島流しを命ずる。

「史官・閔麟生は何度も礼を失い、徽章を取り、覗き見までしたので、
不敬の念に駆られます」という臣下の建議を聞き、(太宗は)閔麟生に島流しを命じた。

太宗実録2冊、太宗1年1401年7月11日戊戌1番目の記事

<朝鮮王朝実録> 出典:조선왕조실록

太宗と臣下たちの終わらない闘争記

「私が史官たちが嫌いだからではなく、史官たちがあまりにも無礼なのでそうしたのだ」
とおっしゃった。

太宗実録5冊、太宗3年1403年3月27日甲辰1番目の記事

2年後、太宗は臣下たちの請願により、史官たちの公式的な宮殿の出入りを正式に許可した時の発言の記録だ。この発言は、「私、悪い王じゃないよ~」という言い訳のように聞こえる太宗の可愛げさえ感じられる発言だった。

そして1年後の太宗4年1404年2月、「歴史的な発言」をした記録が出てくる。

「落馬した王が、史官にはこのことを知らせないようにしろと指示した。」

このようにまた、閔麟生をはじめとする多くの史官に苦しめられた太宗は、1年前に許可したものの「経筵以外の史官の立ち入りは反対」の立場は変わらなかったが、臣下たちが何度も立ち入りの許可を求め、結局、太宗5年の1405年6月、全ての業務に関する立ち入りを許可したのだ。

「史官は記事(記録)の職責を引き受けているのに、
経筵以外には入ることができないので非常に残念です」
と言うので、太宗が
「これからは六曹(육조)で仕事をする場合
内外を問わず入ってこい」と指示された。

太宗実録9冊、太宗5年1405年6月14日無人1番目の記事
<朝鮮王朝実録> 出典:조선왕조실록

その後の5年間、何事もなく平安であった太宗10年の1410年4月、便殿で1人つかまったのだが、今回も史官・崔士柔(チェサユ/최사유)であった。

「便殿には春秋館の記録員もいるから、私が間違えたら彼らが書いてくれるから、
君たちはいなくてもいい。 お願いだから、入ってこないで」と指示した。
結局、朝啓(朝会議)以外の史官の立ち入りを許さなかった。
崔士柔の鞭を打とうとしたが堪えた。

太宗実録19巻、太宗10年1410年4月28日甲子3番目の記事

※春秋館(춘추관)…実録編纂を主管業務とする行政機関

臣下たちが上訴して強く請願すると、太宗10年10月に半年ぶりに再び許可、しかし2年後の太宗12年1412年8月には再び不許可、10月には臣下たちの圧力にも耐えたが、11月にはさらに多くの臣下たちが圧力をかけると太宗は怒り、強い拒否を示した。

太宗
太宗

君たち、閔麟生を知らないのか?

昔、史官の閔麟生が屏風の後ろに隠れて経筵をこっそり聞き、内殿(王と王妃の家族が生活する場所)にも密かに入って来て、私が狩りに行く時は密かに覆面までかぶってついてきたのに、私がこんなに陰湿な人たちをどうやって許すんだ!!

この程度で終わるように見えたが、1ヶ月も経たない12月6日、“さらに!さらに!”多くの臣下たちが「旧法をむやみに廃止してはいけない」と、“さらに!さらに!さらに!” 強く要請したが、太宗はこれを断り、1年を締めくくった。

・・・と思いきや、新年の1413年1月になるとすぐに臣下たちが再び立ち上がった。

「司憲府の臣下たちが請うには、かつて史官が過ちを犯したことがあるからといって

立ち入りを禁止すると、王の業績と歴史を後世にまともに伝えられなくなるのではないか
と心配です。どうか広い心でもう一度許してください」
と建議すると、太宗はこれを承諾した。

太宗実録25冊、太宗13年1413年1月16日丙申1つ目の記事
<朝鮮王朝実録> 出典:조선왕조실록

結局、太宗もこれ以上堪えられず降伏を宣言した。

その後は史官の立ち入りに対する太宗とのいざこざは出てこないが、韓国人が太宗と史官の話を不思議に思う理由は、登場人物が太宗であるからだ。

朝鮮のカリスマ 太宗 李芳遠

現在KBS放送局で放送中の時代劇<태조 이방원>(太宗李芳遠)のポスター  
出典:KBS公式HP

太宗 李芳遠(태종 이방원/テジョン・イバンウォン:1367-1422)

朝鮮王朝3代目の王であり、世宗(세종/セジョン)の父、そして朝鮮建国の太祖李成桂(태조이성계/テジョイソンゲ)の子。
朝鮮のすべての王の中で最も強力な王権を持っていた王。カリスマを超えて「冷血漢」とまで呼ばれた王の代表の「太宗」だからだ。

カリスマ性溢れる高麗時代の武将、父・李成桂(イ·ソンゲ)が、建国の正当性の問題から高麗忠臣たちの懐柔に振り回され朝鮮建国を延ばしていると、ためらうことなく朝鮮建国反対派を刺殺し、朝鮮の誕生に直接影響を及ぼしたが、父·李成桂(イ·ソンゲ)が継母の息子である異母弟を世子として擁立すると、第1次王子の乱(1398)を起こし、継母・神徳王后の子供たち(異母弟たち)とその追従勢力を皆惨殺させ、朝鮮第2代王になった次兄の座を狙っていた第4番目の実の兄·李芳幹(イ·バンガン)の勢力まで殺し、結局、反強制によって朝鮮の3代王・太宗となった人だからだ。

高麗王朝、最後の忠臣・鄭夢周(정몽주:1337-92)が太宗 李芳遠に殺された場所の
北朝鮮の開成(개성)の “善竹橋(선죽교)”
鄭夢周の血痕(写真右)が残っているという伝説で有名。 出典:오마이뉴스

王になってからも、義弟を殺し、王妃の外戚勢力が介入する余地をなくし、息子の世宗が王になった後に問題が発生しないように、世宗大王の妻である昭憲王后の父まで予め取り除いたほど、決断力と残忍さで有名だった太宗が、高位公職者でもない、たかが史官たちのせいで頭を抱え、それだけでなく、お互いに論争までしていたということは想像できない。

ペコム
ペコム

ソウルの清渓川に行くと、光化門の近くに広通橋(광통교)という橋があるよ。
自分の反対派だった継母の神徳王后の貞陵(墓)を強制的に改葬させ、陵(墓)を守っていた屏風石を、橋の復元工事の材料として使ったことで有名な橋だよ!

継母だけど本当のお母さんとして慕っていたのに、結局は血の繋がった自分の息子を世子にしたことに対する、怒り・殺気すら感じることができる史跡だね。

おはる
おはる

墓に使われてた石を使って、橋を造ったのは、みんなに踏まれてしまえ~~!

ってことなんだろうね… ぞっとする~。

ソウル 清渓川の広通橋(史跡第461号) 한국문와유산채널

あえて逆さまに置いたといわれる墓石 *2019年撮影

結局、こんなに怖かった王がいても、王が絶対的な権力を振るった時代でも、歴史の記録において「史官たちがどのような精神で記録してきたのか」を知る重要なエピソードだと思う。

徹底的に記録しようとする史官と、絶えず歴史記録の重要性を進言する臣下たち、
そして、面倒でも受け入れてくれた王たちまで、みんなが一緒に作った記録だ。

王25代。472年(1392~1863)。17万2千日余り。1,893巻 888冊。 464万667字。

過去の朝鮮半島の多くの国や、世界の様々な王朝も歴史を記録してきたし、数多くある歴史書の中でも<朝鮮王朝実録>がなぜ「ユネスコ世界記録遺産」に登録され、有名で特別なものとされるのは、ただ単に記録期間が長いとか、本の巻数が多いからなどではない。

30巻の日本の<三代実錄>や、中国の296年間の<大清歴朝実録>、548巻の南院朝の<大南実録>を除外しても、中国の<皇明実録>は2,964巻で巻数は圧倒的でも、収録された文字数が1,600万字ということを比較すれば、朝鮮の人たちがどんな信念をもって記録してきたかってことが分かる。

歴史はこの膨大な数字の分量の中にあるのではなく、
記録の真実性のために最善を尽くした結果、自然に積まれていく人間の話ではないだろうか。

参考リンク

 

[夜史야사TV] 왕이 꼼짝도 못 하는 단 한 사람 | 천일야사

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