尹大統領、45年ぶりにびっくり戒厳宣言…
国会、2時間半で戒厳解除を議決尹錫悦大統領は3日午後10時30分頃、龍山(ヨンサン)大統領室で緊急談話を通じて「従北勢力を一掃し、自由憲政秩序を守るために非常戒厳を宣布する」と明らかにした。 大韓民国の非常戒厳宣言は1979年10月27日以来45年ぶりだ。(後略)
2024年12月4日 韓国ニュース
2024年12月3日22時30分頃、韓国の全ての放送では尹錫悦(ユン・ソンニョル)大統領の緊急談話が放送された。韓国人全員を驚愕させた “戒厳令の宣布”。
韓国ではあまりにも聞き慣れた単語でありながら、忘れかけていたその単語が生放送で登場したんだ。“戒厳令”。
戒厳令とは一体何なのか、尹錫悦大統領は戒厳を宣布し、韓国人はなぜ驚愕したのか、簡単に調べてみよう!このニュースはとても我慢できなくて久しぶりにカムバックしたよ(笑)
戒厳令って何?
韓国の戒厳令
戦時、事変またはこれに準ずる国家非常事態が発生した時、国家の安寧と公共秩序の維持を目的に、法律の定めるところにより憲法の一部の効力を一時停止し、軍事権を発動して治安を維持できる国家緊急権の一つとして大統領が宣布できる。
ー大韓民国憲法 第77条1項ー
尹錫悦大統領が12月3日に宣言した戒厳令は、国家最高統治権者である大統領の固有権限で、大韓民国憲法第77条に規定されている。
国民に対し戒厳状況を宣布する行政命令を戒厳令と呼ぶ。
日本帝国(植民地時代)の時期には宣言されたことがあって、もう今はなくなったと聞いているが、現在の日本自衛隊法の治安出動や緊急事態条項と似ているものだと考えればいいよ。
戒厳は一言で、国家が戦争や戦争状況に準ずる緊急な状況によって有事の際、軍隊を動員して国民を統制するということだ。
しかし、もっと重要なポイントは “憲法の一部の効力を一時中止” という部分だ。
国家非常事態なので、憲法で保護されてきた国民の権利や手続きが制限されたり、消えたりする可能性があるということ。
“戦時” や “これに準ずる状況” なら、敵軍やスパイに対する調査や処罰を迅速に行わなければならないが、普段の手続き通りに拘束令状を申請したり、裁判所の判決をひたすら待つことができないために作られた規定だ。
裁判所の令状や判決なしに逮捕、任意連行、任意拘束、捜索・押収など、様々なことを政府の勝手にできるようになるのだ。
「法にならえ~、手続きを踏め~!」が通じない世の中になるということ(笑)
また、憲法上保障される基本的権利である言論の自由、出版の自由、集会や結社の自由もまた “特別な措置” が取ることが出来るとされている。
国家の非常事態なので、マスコミや出版が国民を扇動したり、あるいは集会やデモなどを通じて社会混乱を引き起こすことを防げるということだ。
緊急状況でのこのような措置は当然必要のように見えるが、問題はこのような状況になれば民主主義は消え、独裁ともいえる状況が繰り広げられるということだ。
国民が反対意見を自由に言えず、法的保護も受けられないなら、北朝鮮と同じだよね?(笑)
「法にならえ~、手続きを踏め~!」と騒いだり、デモをしたらすぐに捕まるということ(笑)
戒厳令は万能なのか?
このように、戒厳令は国家非常時に国民を迅速に統制するために作られた法律で、韓国初の戒厳令発動は1948年10月の麗水・順天反乱事件(全羅道地域)と11月の済州島4・3事件だ。
1945年の光復(植民地解放)以降、韓国はアメリカの支援を受ける韓国と、ソ連の支援を受ける北朝鮮に分かれ、極度の混乱に陥った。
1950年の朝鮮戦争勃発以前なので、韓国と北朝鮮の間には現在のような国境線の鉄柵もなく、住民は韓国と北朝鮮を自由に行き来していたし、韓国にも共産党があり、アメリカを拒否して北朝鮮との統合を主張する民族主義者もいるほどだったので、大混乱そのものの時期だった。
当時、韓国政府の崩壊を狙った北朝鮮共産党勢力のスパイ掃討と反乱事件を防ぐために発令されたのが韓国初の戒厳令だ。
単なるデモ隊や一般市民だけでなく、武装した勢力がいたので、これくらいなら本当の戒厳令が必要に見えるよね?
北朝鮮の指示を受けた反乱軍である南朝鮮労働党員(共産党員)とのスパイ掃討作戦が繰り広げられ、数百人の韓国軍人と警察の死者が出た事件。
韓国人にとって胸の痛む歴史の一つとして記憶されている理由は、当時の韓国の民間人の被害も非常に大きかったから。
済州島4・3事件だけで、済州島民6万人から8万人が死亡したと推定されている。6人じゃなくて6万人以上…ㅠㅠ
北朝鮮に追従する反乱軍には協力しなかったと死んだり、反乱軍を討伐する韓国軍には北朝鮮スパイ勢力とみなされたり、虐殺された。
問題は民間人死亡者の80%ほどが韓国討伐隊(軍隊+警察)によっていかなる法的手続きなしに処刑されたことで、銃と戒厳令が合わさればどれほど恐ろしい状況が起きるかを示す例だと言える。
発見された遺体数による公式の死亡者数は1万人以上で、当時の人口を勘案すれば、現在の済州島の方言が多く消えた理由の一つに挙げられている。
韓国人が戒厳令を恐れる理由
このように韓国の戒厳令は、始めから歴史の汚点を残し、その後の挑戦戦争勃発による戒厳令を経て、1961年の朴正熙(パク・チョンヒ)大統領の5.16クーデターによってその絶頂を迎える。
反乱を起こした朴正熙政権に反対した多くの人々は拘束されたり、拷問されたり、音もなく消えていった。
手続きが省略されたり、現場での即時判断が多かったので、記録がまともに残っておらず、誰がどれだけ捕まったのか、誰がどれだけ消えたのかさえ完全に把握できないのだ。
その当時は文字通り、誰かが突然消えたら、二つのうちの一つとして考えなければならなかった。
北朝鮮のスパイに拉致されて北朝鮮に連れて行かれるか、戒厳軍に連れて行かれて二度と戻れなくなるか。
この時期を扱った映画『大統領の理髪師』(2004)で主人公ソン·ガンホの息子が拷問を受けて帰ってくるが、こんな社会状況のため、拷問の後遺症で障害を負ってしまっても喜ぶ両親の姿が描かれている。息子が生きて帰ってこれたから(一一”)
“憲法の基本的権利の制限可能”、“手続きの省略” というこの文章は、経験した人だけが知ることができる恐怖そのものなのだ。
18年間の政権期間中、朴正熙政権は5回の戒厳令を宣布したが、事実上政権期間中はずっと戒厳令の時代だったと言っても差し支えないほどだった。
ソルロンタンと南山(ナムサン)の記事(リンク)で説明したように、この時代の国家情報部と戒厳軍の悪行はあまりにも有名で、映画『弁護人』(2013)や『南営洞1985~国家暴力、22日間の記録~』(2012)など、数多くの作品に登場している。
その作品の中でよく登場する場所が、ソウル南山の下の南営洞にある “南営洞対共分室” というところで、当時韓国の天才建築家と呼ばれた建築家キム·スグンに依頼して作った拷問専用の建物だ。
殴打と電気拷問、水拷問、性的暴行は基本で、各種拷問のためのオーダーメード型建物を作ったほどだった。下の写真の5階の縦型の小さな窓があるところが顧問専用の部屋だ(一一”)
軍事政権の時期を扱った韓国ドラマや映画で「南山から出てきました」、「南山に連れて行かれました」というセリフがよく登場するほど、韓国人にとって “南山” という単語は拷問という単語と一致する恐怖を植え付ける単語の一つだ。
そして、そのような恐怖を終わらせるもう一つの決定的な事件である1980年の5·18光州民主化運動の民間人虐殺も、全斗煥(チョン・ドゥファン)政権の戒厳令の時期に終わったので、
韓国人は戒厳の必要性と正当性に対する論争と関係なく、民主的手続きが消えた時期の危険性をあまりにもよく知っているのだ。
韓国人にとって “戒厳” は民主主義の喪失という象徴的意味だけでなく、いつでも自分の周りの家族や同僚が拷問を受けて死ぬかもしれないという現実の恐怖として残っているのだ。
1993年に軍事政権が終わった後、2024年現在、韓国には依然として、
自分の父の父である祖父が、友人の両親が、職場の同僚が、学生時代の友人が拷問を受けて障害を負い、戒厳軍によって亡くなるのを目撃した数多くの国民が生きているため、
彼らにとって戒厳令の記憶は依然として消えず、忘れられない恐怖であるしかないのだ。
今回は韓国の戒厳令が何で、韓国人にとってどんな意味なのかについて解説したよ。次回はなぜ韓国で戒厳令がしばしば発令されるのか、次の記事をお楽しみに!
多くの韓国人にとって戒厳令は、歴史教科書の内容ではなく自分が経験した日記と同じだよ。