全3回にわたってお届けする今回の韓国史コラムは500年以上続いた朝鮮王朝の歴史<朝鮮王朝実録>に残る実話エピソードを紹介します!
コラム#1をまだご覧になっていない方は、コラム#1から先にご覧ください!
ストーカーvsストーカー:実録の原則1
コラム#1の記事では、膨大な量の<朝鮮王朝実録>太宗編のエピソードから、
<朝鮮王朝実録>がどのように記録されてきたのか大まかにお話した。
「 記録したい者 vs 記録されることを拒否する者 」
「 監視する者 vs 監視から抜け出したい者 」
している行動はストーカーと変わらないのに、「私の行動はすべて天の命令だ」とあまりにも堂々と王に食ってかかる人たち。
1人を避けることだけでも大変なのに、24時間ずっと交代で監視するので、「私のプライバシーはどこにあるのか!」と叫んでいた当時の王達と、「私たちは記録の守護者!」という8人の記録オタク集団・史官たちの話をしよう!
幸いにも、歴史記録を理由に殺された史官はおらず、天下の「太宗」さえも自分の性格を抑えなければならなかった全ての理由は結局「原則」。
王は原則的に実録を書く史官や承政院日記を書く注書のような記録者がいなければ誰にも会えない
※承政院日記(승정원일기):今でいう大統領秘書室の業務日記のようなもの
朝鮮時代以前から伝わった、中国由来の歴史記録の原則があり、それを守ろうとする意志と努力があったからこそ、今のように多様な「昔の話」を知ることができるんだけど、その原則の中の1つに関連した世宗大王の話をしよう。
世宗大王の黒歴史と呼ばれる別名、「世宗大王ストーカー説」
世宗大王のやさしい執着:実録の原則2
実録の原則の中には、上記のような原則を守って作成した史官の記録は、
“実録編纂前までは誰も閲覧することはできない!王だとしても不可”
史官が記録した王が崩御した後に、その王の実録編纂作業に入るが、この時だけが当時の編纂担当史官たちの閲覧が可能だった。王は変らず閲覧禁止。
実録には、史官たちの批評部分も入るため、史官たちの公正な評価と後代王の復讐をはじめとした史官たちの安全のためにも、徹底的にタブー視された事項だったのだ。
しかし、あれほど立派な人柄のわれらの「世宗大王」は、世宗7年1425年12月5日、急に自分の祖父の話である<太祖実録>を読みたかったのか、複写本を作って、自分がいつも見ることができる場所に置くよう命令したが、その論理が面白い。
「<太祖実録>は1冊しか作っていないから、万が一なくなったらいけないから、もう1冊作って春秋館に納本し、1冊は私がいつも見られるように春秋館に置きなさい」
と世宗が指示すると知館事の卞季良(변계량)が次のような理由を挙げて反対した。「<太祖実録>には、秘密にしなければならないことが沢山あり、臣下の河崙(하륜)が知っているだけで、他の人は知りません。
世宗実録30冊、世宗7年1425年12月5日庚午 5番目記事
だから、複写本を作って多くの人々に知られるのはいけないことです。」
論理的な世宗大王だったが、反論できなかったのか、何も言わずに諦めていたら良かったのだが、13年後、今度は世宗の父の話である<太宗実録>を読みたがる記録が出てくる。
「<太祖実録>を見ようと多くの臣下に相談したところ、柳廷顕(유정현)などが “朝廷が定めた法に基づき、朝廷の事業を継述することは良い事だ”といい、よく見ることができた。」
「すでに<太祖実録>を見たので、<太宗実録>も見ることが出来ると考えられるので、
兼春秋に相談せよ」と世宗が命じると、大臣・黄喜と申概らが言うには、「歴代王の中に実録を見た人がいても見習うものではないと思います。(中略)
世宗実録80冊、世宗20年1438年3月2日兵術4番目の記事
特に太宗の出来事は殿下が隣で直接見ていますので、もし太宗の事を見習いたいのであれば
既に知っているのに、どうして必ず今、実録を見なければならないのでしょうか。
私たちの心が安らかではありません。」
そのように臣下たちが言うと、世宗は諦めたと書かれているが、その2日後の記録を見ると、
春秋館に命じて、太宗が<太祖実録>を閲覧したことがあるかないかを
世宗実録80冊、世宗20年1438年3月4日無慈3番目の記事
調べて報告するように言ったところ、実際に閲覧したことはなかった。
それは父・太宗が本当に祖父の<太祖実録>を見たことがないか記録を確認しろという指示だった。
臣下たちの言葉が信じられかったってことだよ(笑)
「君たち、私が実録を見ないようにするために言ってるだけでしょ?」って思ってたんだろうね。
問題は、私たちが見逃した部分だ。3月2日付けの内容の前の部分。
「<太祖実録>を見ようと多くの臣下に相談したところ、柳廷顕(유정현)などが ”朝廷が定めた法に基づき、朝廷の事業を繼述することは良い事だ”といい、よく見ることができた。」 という世宗の発言。
「太祖実録を~(中略)~よく見ることができた。」
え?どういうこと?
この出来事の前に臣下たちが反対したから、諦めたんじゃなかったっけ?
そうなんだよね(笑)
記録が抜けているのか、こっそり見たのかどうか分からないけど、<太祖実録>を見ることが出来るという論理を作ってあげた賛成派の臣下の名前が「柳廷玄」と記されているんだけど、彼は1426年5月に死亡してるんだよね。
知館事の卞季良(변계량)が世宗の太祖実録閲覧に反対した時期は、1425年12月だったから、それから5ヶ月の1426年春と推定される。 結局、世宗はその当時は諦めたふりをして、すぐにまた読みたいとねだったんだね(笑)
結論は、閲覧したい物が<太祖実録>から<太宗実録>に気持ちが変わったのではなく、<太祖実録>はもう見たから新しいものが見たいということだった。 それで今回世宗の論理が、「この前、君たちが見ても良いって言ったよね? 今日はお父さんのを見たい!」と主張したが、今回は通じなかったのだ。
実は意外な「実録ストーカー」である世宗は、簡単には諦めず、
おじいさんのものはいいけど、お父さんのものはいけないっていうのは、
とんでもない論理だ!
過去の王たちの過ちを見て初めて、我々はたくさん学び、より良い政治ができる!
良い政治をすることこそ、本当の民を大切にする王の義務ではないか!
・・・と、主張を続けるも…
当時、朝廷には朝鮮時代最高の宰相といわれる黄喜(황희:1363-1452)がおり、彼の一言で世宗は論駁されることとなる。
<太宗実録>を記録した史官の中には、まだ生きている人が沢山います。
記録に書かれている内容によっては、世宗の心が穏やかでなかったり、まだ生きている史官の心が穏やかでなかったりするかもしれないが、記録を見ても本当に悪いことはしない自信があるのか?ということだ。
もっと怖いのは、史官の評価や記録の内容よりも、記録に登場する多くの人物がまだ生きているということを遠回しに表現したのだ。父に反対した臣下たちまで…
これは作成されて、すでに時間がだいぶ経っている祖父の<太祖実録>とは次元が違う話だから。
世宗、そして万が一のため不安で震えている史官、それを見守る臣下たち…
「実録を見るということは、お前、俺、俺たち、みんな気楽ではない」ということなのだ。
この出来事の後、世宗は<太宗実録>に対するストーカー行為を止め、皆幸せに暮らしました~。
・・・って話が終わったら、ストーカーらしくないじゃない!?
それから約20年後の1446年11月8日、世宗は再び<太祖実録>を閲覧する。
もちろん、この時も春秋館において前朝の実録を見るのは正しくないと激しく反対したが、世宗は無視して<太祖実録>を読み直したのだ。
父の<太宗実録>への未練の代わりか、祖父の<太祖実録>への執着を見せ始めるが、<太祖実録>を閲覧した後、世宗は太祖・李成桂とその先代の行跡を記録した<太祖実録叢書>の部分が非常にずさんであることを発見した。
特に、朝鮮建国以前の李成桂の軍事活動に関する記録が非常に簡略化されており、当時のことを詳しく覚えている老人たちに会い、現地調査により記録を補うよう、何度も指示している。 高麗時代の最大の功績であった「黄山大捷(황산대첩)」に関する記録も小略化されていたと言えるほど、李成桂の記録そのものが非常に貧弱であったことは事実と思われる。
2年後の1448年6月、結局、<太祖実録叢書>が新たに増補・編修され、その結果、テーマ項目だけで100を超える記録になり、詳しく豊富になった。
代わりに、それに伴う反対給付というべきか、もともと高麗一の将帥として知られていたが、太祖・李成桂の武功が、まるで武侠伝の主人公のように感じられる記録も多く含まれていることが問題だった。
それでも、多くの調査とインタビューによる作業のおかげか、朝鮮建国以前の太祖・李成桂の行動をより具体的に確認できる土台を作った部分は高く評価される。
記録オタクたちのストーカー行為を避け、新しい方式のストーカー行為を見せた世宗大王。
自分のおじいさんとお父さんの詳しい話が、Wikipediaに載っていたら、どんな息子でも気になってWikipediaを見たいとねだるだろう。ネット環境がなかったら、ネット環境がほしいというだろうし、話を読んで、「この話は間違っている」とか、添削もしたいと思うのは普通のことかもしれない。
歴史が称える彼の業績のように、全てが世宗のように聖君であり、最大限公正性と平常心を維持していたら、すべてが美しい話として今回のコラムは締めくくるんだけど、歴史は生物と同じで、生きて動くもの。
世宗の実録に対する執着の結果は、約50年後、「朝鮮王朝10代王になった燕山君」にバタフライ効果をもたらし、朝鮮王朝全体の運命を変えることになった。
燕山君の悪い執着:実録の禁忌事項
燕山君(연산군/ヨンサングン)は父・成宗(성종/ソンジョン)の嫡長子として生まれたが、当時の士林と勲旧派の大臣たちが勢力を伸ばしていた朝鮮政界での謀略事件により、母の廃妃尹氏が燕山君が3歳の時に廃位・賜死してしまったことがあった。
これは、朝鮮第9代王の成宗が、正式の王位継承者でない状態で13歳で王になったが、幼い王の代わりに勲旧派の大臣たちが国政を総括して運営してきたため、父の成宗の王権はもともと非常に弱かったからだ。
このような過程の中で王となった燕山君は、臣下の反対にもかかわらず、父の<成宗実録>と史官の史草を直接読んでしまう。
※史草(사초):史官たちが実録を作るために書く記録。実録の原稿になるもの。
母の死の過程に対する記録を見て激怒しないわけがなかった。
父親の成宗から祖母の仁粋大妃(インステビ/인수대비)まで、母親を殺さなければならない理由を語る内容が、毎日数十個ずつ書かれていたから、正常心でいられるはずがないのだ。
“自分の母が死ななければならない理由リスト”を父と祖母が毎日言ってると考えてみて…。そして、そこに参加してさらに煽る他の側室や臣下の発言まで…。
もちろん、廃妃・尹氏の廃妃の原因について、士林派の単なる謀略ではなく、実際に異常な行動をしたという記録もあるので、むしろ燕山君の性向が遺伝的要因だという説もある。
いずれにせよ、本来狂っていたのか、この時期から狂っていたのか分からない「朝鮮の狂気王」と呼ばれる燕山君の狂気の刃傷沙汰が始まり、朝鮮王朝実録にも類を見ない「18禁成人バージョン」の記録が溢れている。
燕山君10年1504年3月20日夜に始まる甲子士禍(갑자사화)と呼ばれるこの事件は、父・成宗の2人の側室であり、自分の継母だった厳氏と鄭氏に対する拷問から始まる。
その後、2人の母親の顔を隠し、2人の息子であり自分の異母弟である李恒と李鳳に
「逆賊謀議をした者だから棒で打ち殺せ」と命令し、息子が母親を殴るという珍しい事件を演出した。自分の母親であることに気づいた李鳳がためらうと、結局燕山君は2人の継母を殺し、母親をよく殴っていた李恒には、翌日、一頭の馬を褒美としてあげるという嘲弄をした。
2人の継母を殺した後、燕山君は自分の乳母の役割をしてくれた
継母である慈純大妃(자순대비)の寝所を訪れ、刃を振り回しながら出て来いと叫ぶと、侍女たちは皆逃げ、王妃の申氏が辛うじて止められ、災いを逃れた。次は李恒と李鳳の頭を引っ張り、病気で横になっていた祖母の仁粋大妃の所まで連れて行き、
強制的に酒を飲ませ、酒を飲んだ仁粋大妃に
「愛する孫に下賜するものはありませんか?」と脅すと、
仁粋大妃は余裕がなく、布2疋をあげたそうだ。続いて燕山君は仁寿大妃に「どうして私の母を殺したのか」と祖母を脅し、
燕山君日記52冊、燕山君10年1504年3月20日辛巳5番目の記事
すでに老齢で病気だった仁粋大妃は、1ヵ月後に死亡した。
仁粋大妃の場合、すでに病気にかかっているのに、あらゆる暴言に苦しめられて死んだという説と、燕山君が祖母の頭を頭突きして死んだという説があるが、燕山君の「頭突き説」は実録には記録がなく、宮廷記録ではなく、<燕麗実記述(연려실기술)>という歴史書にのみ記録が残っている。
二人の継母の遺体をずたずたに裂いて宮殿の外に捨てろと指示し、島流しをした2人の異母弟は1年後に2人とも賜死したが、その罪名は自分の母を殺害した継母たちの連座制。
その後、廃妃尹氏廃位事件に関わった朝鮮の大臣と、士林派の参加者の8親等親族まで連座して処罰される血風を避けることができなかったのは、あまりにも当然のことだった。
処罰を受けた当事者だけで239人、そのうち122人が死亡したり、副官斬りにあっており、その連座制に当たる8親等親族まで含めると最大3千人とまで推算される。
こんな風に、狂った王・燕山君の名前を歴史に刻んでいた時、剖棺斬屍された勲旧派勢力の代表人物が、成宗時代の領議政「韓明会(ハンミョンフェ/한명희)」という人で、彼が王よりも出世していた時代、漢江の川辺に建てたあずまやの名前が「狎鴎亭(アックジョン/압구정)」。まさに今のソウル江南を代表する「狎鴎亭洞」の由来となる場所だ。
※剖棺斬屍(ぼうかんざんし/부관참시):すでに死んだ人の罪を問うため、墓の中の死体の首を切ること
燕山君の狂気は結局、士林派のクーデター(中宗反政)によって終わり、朝鮮の国力が弱化することになる。無気力な王権と勢力を伸ばした士林派の無意味な論功行賞に代表される以後の時期は、1592年の文禄・慶長の役、1636年の丙子胡乱という朝鮮最大の危機と恥辱を残した。
太祖・李成桂と太宗・李芳遠、そして世宗大王へと続く黄金のトリオ時代を通じて国の基盤を築きあげた「李氏朝鮮」、500年の輝かしい歴史はこの頃から揺れていたのだ。
その始まりは世宗の実録への執着によるものとは言えないが、一つの「歴史的先例」は、「もう1つの先例」を作って血の狂風を呼んだため、その後、朝鮮の名が消える瞬間まで、いかなる王も先代の実録を見ることができなかった。
先代の実録を見ようと試みた王は依然としていたが、そんな時、臣下たちが「あなた、燕山君?」という一言でその考えを断念させたから。
狂ったようなオタク力を見せてくれた朝鮮の史官たちも、根気の執着を示した朝鮮の王たちも、皆自分たちの「原則」を守った時に、そのシステムは健全に維持できるという教訓を、今日の子孫たちに伝えている。
歴史が「どのように記録されたか」も重要だが、その「歴史をどのように活用するか」もまた逃してはならない核心要素だということだ。
現代の韓国人が他のことは分からないけど、韓国史教育には心から接し、「歴史を忘れた民族に未来はない(역사를 잊은 민족에게 미래는 없다)」と自らに強調する理由は、その歴史が輝かしく自慢したいからというわけではなく、少なくとも、恥と受難の歴史を二度と繰り返してはならないという誓いの表現だろう。
人の物語:実録の根本的な力
だからといって、実録には後代に伝えるための重い血風の話だけが記録されるわけではなかったが、朝鮮初期には史官たちも記録システム初期の時代だったので、何を書かなければならないのか分からず、とにかくあれこれ詳しく記録しようとしたため、王との意見衝突も多かったのであって、システムの基盤が整いつつある後期には、ますます規格化されていく。
また、実録だけでなく、<承政院日記(승정원일기)>や他の記録書を交互作成し、補い合ったり、役割を分けたりする記録の方式を用いている。
その中で女性に対する印象的なエピソードを紹介してみると、男性の医員に対する当時の女性の認識と医療制度のシステムがうかがえる記録、
知済生院事の臣下の許衜(허도)が夫人たちが病気でも、
太宗実録 11巻、太宗 6年 1406年 3月 16日 丙午 1番目の記事
男性医員に診脈を受けることを恥ずかしいことだと考え、死に至る場合が多いので
済生院(医療担当部署)に命じて童女に医薬を教えるようにしてくれと要請すると、
太宗がそれを受け入れて医女を選ぶようにした。
朝鮮第11代王・中宗14年の1519年に、男子は絶対に入ることのできない王の閨房(寝室)のことも記録するため、臣下たちが女子史官を選ぶよう王に建議すると、中宗は拒否した記録で、意外にも女性を採用すること自体には臣下も王も大きな抵抗感はなさそうだったが、どうしても寝室の自由を守ろうとする中宗の言い訳が可愛いエピソード。
臣下たちが、中国にはずいぶん前から女史がおり、君主が一人でいる時も
修養するため必要だという論理を挙げて女史採用を建議すると中宗は、
昔と違って最近の女性たちは作文が下手だと反対する。すると臣下は、必ずしも文章に長ける必要はないと反駁し
他の臣下はそれでは諺文(ハングル)で記録しても良いのではないかと王に反論した。中宗は正しい女性史官を見つけるには
中宗実録35冊、中宗14年1519年4月22日乙酉1番目の記事
「心が正しい女性」を探さなければならないが
最近は見つけにくいと他の話題に移った。
この他にも、
「平壌(ピョンヤン)のある家の子犬が、雷に打たれて死んだ」
「最近のソンビ(学者)たちは学問よりもお金を稼ぐことだけを気にする」
「世宗大王が、好きな側室にこっそりみかんを1つあげた」
「狂気の燕山君はイケメンでダンスも上手だった」
「光海君時代、真昼のUFO騒動」みたいな細かい内容も沢山出てくるんだ。
たとえ、燕山君によって<朝鮮王朝実録>の原則が大きく揺れたが、それで発生した事件の全貌が詳しく記録され、新しい「反面教師」になっているのを見ると、この全てを可能にした根本的な力は、太宗から島流しされた「史官・閔麟生」の記録から探せるのではないかと思う。
島流しに行く直前に閔麟生が、
史官閔麟生の最後の記録
どうか今日最後に文を書かせてほしいと祈りに祈り、
史官として最後の記録を残した。
「今日の王様が私を追い出した」
*おまけ*ソウル桂洞(계동/ケドン)の地名の由来(北村韓屋村)
ソウルの「北村韓屋村」と「昌徳宮」の間にある洞の名前は桂洞(계동/ケドン)と言う。
ここに「済生院(재생원)」があって「済生洞」に由来する名前だ。
時代の流れとともに発音が似ている済生洞(ジェセンドン)から桂生洞(ケセンドン)となり、桂生洞(ケセンドン)は妓生洞(キセンドン:妓生の町)と名前が似ているためイメージが良くないため「生」の字を取って今の桂洞(ケドン)となった。
*おまけ*関連映画