8月15日、韓国の光復節を迎え、ソウル光化門にあった “朝鮮総督府” について紹介するよ!ソウルに旅行に行ったことがある人は、ほとんど訪問したことがある場所についての話だよ~!
ソウルの中心には何があるのだろうか?
気楽に旅行できない時期、多くの人が訪れたことがある景福宮の映像を見ながら始めてみよう!
朝鮮王朝初代の太祖·李成桂(イ·ソンゲ)は1392年、朝鮮を建国し、国の首都を現在の北朝鮮地域の開城(ケソン)からソウルに移した。
新しい首都ソウルの中央に、建てられた朝鮮の最初の宮殿が “景福宮(キョンボックン)”
そして景福宮の正門が “光化門(クァンファムン)” だ。
“ 光化 ”
“ 王の大きな徳が国中を照らすだろう ”
本来は景福宮の正門である写真の中の門を指す言葉だが、今の韓国人は光化門がある世宗路(光門化・南大門)地域の辺りを “光化門” と呼んでいる。
韓国人と光化門で会う約束したからって、光化門の目の前にいてはいけないよ~(笑)
行ったことがある人はご存じだと思うけど、光化門の後ろには景福宮があり、その前の大通り(世宗路)には光化門広場、そして広場には世宗大王銅像と李舜臣将軍の銅像がある。
ここで写真も沢山撮ったと思うが、皆さんがまたここを訪れたら、新しい姿の光化門広場を見ることになる。
2年余りの工事の末、今年8月に再オープンした光化門広場は、既存の広場の両側の道路のうち、片方を全てなくし、公園を造成して2倍に広がった。
ソウルの真ん中の大型道路をなくすことから、韓国民主主義の代表的なデモの空間が消えることまで、様々な賛否両論もあったが、
工事のおかげで荒涼として堅苦しかった広場に、多くの植物と休息空間が出来たという。様々な種類の噴水や水の施設もあるそうなので、次の映像で事前に見てみよう。
ソウルの中心から何が消えたのだろうか?
実は、皆さんが訪問した光化門には、今はない他のものが存在していた。
韓国の “国立中央博物館” 。
韓国最大の近代建築物で、華やかさと雄大さを誇った建物だが、その “歴史” が問題だった。
日本による植民地時代、植民地統治行政機関である “朝鮮総督府” の建物で、景福宮の勤政殿の前にあった興礼門、永済橋、維和門などを取り壊し、その場に建てた建物だ。
1910年の庚戌国恥(日韓併合条約締結)以降、南山にある日本公使館が狭くなると、朝鮮総督府は新しい庁舎の建設を決定した。
朝鮮人の文化·歴史·民族的心理を威圧し、大日本帝国の優越性を宣伝するために決めた場所が朝鮮の正宮、景福宮の入口。
すでに日本は景福宮の重要な建物数軒を除き、景福宮の建物6,806間のうち4,000間余りを競売で売却した状態だった。
この時期、満身創痍となった景福宮を、1991年から現在進行形で約30年間復元中の場所が、皆さんが訪れた現在の景福宮と光化門で、2045年に復元が完了する予定だよ。
朝鮮総督府の建物は、1945年8月15日の光復以後 “中央庁” として使われ、大韓民国政府樹立直後には大韓民国政府庁舎と国会議事堂として活用された。
しかし、政府庁舎と国会議事堂として使用するには、建物の “歴史性” がひたすら問題だったため、1975年の国会議事堂移転を皮切りに、政府庁舎まで全て移転しなければならなかった。
その後、1980年代からは国立中央博物館として使われていたが、1995年に日帝残滓の清算(日本の植民地時代の名残を消す運動)と民族の精気を正すために撤去された。
現在、光化門と景福宮・勤政殿の間の広い空間が朝鮮総督府(旧国立中央博物館)があった場所!
なくさなければいけなかった理由
日本の緻密な設計
朝鮮総督府庁舎は、ほぼ同じ時期に日本によって建てられた台湾の総督府庁舎と、日本の国会議事堂庁舎とも外観と構造が似ている。規模はむしろ大きい方だ。
朝鮮総督府自体の雄大な規模と美しさを考えると、現在の台湾と中国(満州国庁舎)のように、そのまま建物を使ってもいいのではないかと思うかもしれない。
植民地だった他の国々も、この程度の規模の建物は別の用途でも使っているから。
なぜ?敢えて?必ずそうすべきだったの?と疑問に思うが、最初のパートで話したようにこの建物の “位置” が問題だった。
ソウルの真ん中、ソウルの中心。
ここまでは100歩譲って、悲しい歴史も歴史だから、それなりの歴史性を持ったこの建物を保存しようという意見があった。
しかし、韓国を象徴する朝鮮の代表的な正宮・景福宮の場所に、それも宮殿内部を占領し、光化門と景福宮の連結を塞ぎ、風水地理上、朝鮮の精気が増す世宗路まで塞いでいる形は到底我慢できない。
もちろん、これはすべて植民地支配当時の日本の意図が反映された位置と設計。
その中でも特に、光化門の位置と角度が問題だ。
1968年、朴正熙(パク·チョンヒ)政権時代に光化門を復元したが、1927年に日本が強制移転した当時とは位置が違っていた。
復元するまでの期間に出来た世宗路の拡張と交通問題のため、本来より後ろに14.5m離れており、さらに大きな問題は、朝鮮総督府庁舎に合わせて光化門を復元したため、光化門と朝鮮総督府の建物はその後ろの景福宮・勤政殿などと一直線ではない。
景福宮と光化門は元々、冠岳山を一直線に眺める風水地理に合わせて建てられたが、朝鮮総督府は南山を眺められるように、南山方向に5.6度ずれた状態で建築した。
もともと南山には檀君祖父(韓民族の起源)と多くの神々を祀った国家祠堂があったが、日本はすべて取り壊し、日本の祖先の神を祀った神社を建てた。
南山を眺める方向に総督府の建物を建てたのだ。
朝鮮の精神を抑え、日本の先祖の神に向けた緻密な設計なのだ。
あなただったら賛成ですか?
それでは国立中央博物館として使用中のこの建物をどうすればいいだろうか?
建設主体と建設目的は明らかに不純だが、
日帝の20年(朝鮮総督府として使われた期間)より長い50年余りを韓国が使用した建物で、大韓民国初の国会開院、大韓民国国号の決定、初代大統領選出、大韓民国政府樹立行事などが行われた場所。
日本による植民地時代の悲しい歴史もあるが、 “大韓民国” の誕生と発展の歴史も、共に歩んできた新しい歴史が積まれたところ。
しかし、ソウルのど真ん中で、朝鮮王宮の根本と韓民族の歴史を揺るがしている建築物。
韓国でも撤去に対する賛否両論が激しくならざるを得なかった。
1990年に、現在も進行中の景福宮の復元事業が決定し、1991年に盧泰愚(ノ·テウ)大統領が中央博物館の撤去を指示した時まで賛否両論は激しく進行できずにいた。
そして金泳三(キム·ヨンサム)大統領が就任した1993年8月の光復節(クァンボクチョル=日本の植民地支配からの解放記念日)を控え、“歴史立て直し(역사 바로세우기)”のために朝鮮総督府の建物を早期に解体せよと指示し、結局解体に取り掛かったのだ。
1995年3月1日の3·1節行事で、政府は金泳三大統領の指示に従って、旧総督府の建物を取り壊すと宣言した。
光復50周年の1995年8月15日、光復節行事で総督府建物の尖塔を分離して撤去が始まり、”朝鮮総督府“、韓国の “中央庁” 、“国立中央博物館” の70年にわたる建物の人生を終えた。
その後、2006年に始まった4年間の復元過程を通じて、朴正熙政権時代にセメントで復元された光化門を再び復元し、日帝時代に歪んだ光化門の角度を正したのが、まさに現在、皆さんが知っているソウルの光化門だ。
光化門は変身中
しかし、ゆがんだ世宗路の角度はすでに数十年間で、道路沿いにできたビルによって手がつけられないため、まだ角度がずれていて、本来、光化門の前にあった月台とヘテ像は光化門前の道路のために本来の位置ではない場所にある。依然として完全ではない復元
時代劇ドラマで、光化門の前で臣下たちが王に上訴をした場所が月台で、王がお出ましする時に民が王に訴えた場所が月台だ。現在は光化門入口側の一部だけが残っている。
ヘテ(ヘチ)はライオンに似ているが、頭の真ん中に角があるという想像の動物で、火災や災いを退ける神獣とみなし、宮殿などの建築物に装飾として使われたが、光化門の前を横切る道路によって現在は人道側に位置している。
皆さんも、写真を沢山撮ったであろう光化門前の動物の銅像が “ヘテ”、“ヘチ”と呼ばれる動物だ。
ひょっとして、もう気づいた方もいらっしゃるだろうが…。
私たちのブログ ium のメイン写真がまさにこれ(笑)
メインイメージとして使うと聞いて私は反対した(笑) 怖そうなのに何でこれを使うのか(笑) ヘテ像が可愛いというのがおはるの意見だった(笑)
なんで~可愛くない? (笑)
幸い、月台とヘテ像は、今回の光化門広場の拡張工事に含まれ、早ければ今年か来年頃には元の位置に復元が完了する予定だ。 やっと本来の姿に戻ることになるんだ。
100年以上にわたる韓国の “歴史立て直し” はまだ進行中だ。
今度、光化門を訪れて光化門の裏手の景福宮と北岳山の風景を眺めると、「あ~この風景を遮っていたんだな」と思うだろう。
ヘテ像を撮るときは、私たちの “ium” も忘れないでね~! (笑)
次の記事では、中央博物館が爆破された過程と理由について詳しく紹介するね。皆ここまで読んでくれてありがとう!