全3回にわたってお届けする今回の韓国史コラムは500年以上続いた朝鮮王朝の歴史<朝鮮王朝実録>に残る実話エピソードを紹介します!
コラム#1、2をまだご覧になっていない方は、コラム#1、2から先にご覧ください!
ハングルは誰がつくったのか?
“ハングルは誰がつくったと認識していますか?”
世宗が “集賢殿” の学者たちと “一緒に” 創った | 55.1% | 黄色 |
世宗は指示のみ行った | 24.4% | 赤色 |
世宗が “直接”、 “一人で” 創った | 17% | 青色 |
分からない/無回答 | 3.5% | 灰色 |
2018年の世論調査によると、韓国人の約80%が間違っているハングルの創制過程。
韓国人なら誰もが自慢したくなるハングルにもかかわらず、なぜこんなにも認識の差があるのだろう?
まず、韓国人の一番尊敬する人物として、いつも最上位を座を占めるのが「世宗大王」について調べてみよう。
1万ウォン札の人物でしょう?ハングルをつくった王っていうのは知ってるよ!
うん、そうだよ。ソウルの光化門の前にある銅像の王だよ。世宗大王と李舜臣将軍の銅像は皆さん見たことあると思う。
世宗(세종) 名前:李祹(イド/이도) 1397-1450 (在位 1418-1450) ●朝鮮王朝第4代目の王 ●朝鮮を建国した太祖 李成桂の孫で太宗 李芳遠の息子 ●朝鮮時代の約500年27代の王の中でも優れた王の1人として評価されている <主な業績> ★ハングル創制 ★各種科学機械の発明 ★宮廷音楽である雅楽の整理、様々な楽器の制作と朝鮮ならではの音楽政策の樹立 ★奴婢と女性、子供たちのための社会的弱者保護政策の施行 ★奴婢の出産休暇制度とその夫の育児休暇の実施 ★高齢者の恭敬のための優遇制度の実施 ★「医女制度」を拡大し、全国における医療の死角地帯の最小化 ★捨てられた子どもたちのための「済生院」の役割の強化 ★子ども遺棄行為の告発時の報償制度の施行 ★高齢化、高齢者のための社会的弱者保護政策の施行 などなど…
今の社会でも、よく聞く用語と福祉政策だね!
そうなんだよね!本当に言葉通り”言葉にならない業績の数々”!
これくらいなら韓国人じゃなくても、尊敬に値する仕事ぶり…!だから、逆に世宗の1番の業績である「ハングル創製」に対する間違った認識が生まれてしまったんだと思う。
「すでに他の業績もすごいのに、ハングルまでつくったの?」
「すごいのは知ってるけど、他の業績のように臣下たちにつくらせたんだよ」
「世界的にも類を見ない独創的な文字体系をつくったのに、
1人でつくるのは可能なの?」
「ありえない。ただ時代上、
王だから王も貢献したって記録してあげたんだろうね~」
このような意見や認識はあまりにも当然で、全く問題がなさそうだ。だから、学校や教科書でさえもそう教えてくれたし、そうやって学んできた。それだけでも本当に立派な業績で誇りだったから。
世宗大王は‟集賢殿(집현전)”という学問研究機関を設立し
優秀な人材を集め
訓民正音(ハングル)を作るための研究をし
これを1443年に完成させた。
そして臣下の反対にもかかわらず
3年後の1446年に訓民正音(ハングル)を頒布した。
中学歴史教科書の内容(교학사2017년판,동아출판2018년판,좋은책2017년판etc…)
ほとんどの歴史教科書と韓国語教材、観光パンフレットなどには、このように書いてあるが、一体何が問題なのだろうか?
実は基本的な根拠自体は問題になることはひとつもない。全て実際の記録によるものだから。
一般的に、ハングルが素晴らしい文字だと言う理由は、創製原理が独創的で科学的、そしてその構造が体系的で効率的で、簡単に学べることって習ったと思うんだけど、ハングルが他の文字と比べて一番特別な点が、ハングルのように “創製時期、創製者、創製目的と創製原理” が明確な記録がないことがほとんどだということ。
記録の王朝と言われる朝鮮時代だったからこそ、ハングルや色んな記録が残っていて、
漢字で書かれた“ハングルガイドブック”の<訓民正音解例本>、
その本をハングルで翻訳した“解説書”の役割をする<訓民正音音諺解>、
王室の歴史を記録した<朝鮮王朝実録>には、“ハングルの創製と頒布の過程に関する記録”が残っている。
まさに、この部分で勘違いが生まれた。
記録をあまりにも多かったからなのか、記録自体を“盲信”しながらも、結論に対する判断 “選択的取捨と恣意的な解釈” をしてしまったのだ。
今月、王が自ら諺文28文字をつくったが、(~中略~)
世宗実録102冊 世宗25年1446年12月30日庚戌2番目の記録
文字は簡単だが活用が無限で、これを“訓民正音”と呼んだ。
癸亥年(1443年)冬に王が整音28文字をつくって簡単に説明し
世宗実録113冊 世宗28年1446年9月29日甲午4番目の記録
その名称を“訓民正音”と呼んだ。
(訓民正音を頒布しそれまでの過程を説明)
誰が見ても“王がつくって”、“王が自らつくった”という表現があったにもかかわらず、この部分をこれまであまりにも当たり前に、「王だからこのように表現しただろう」と、“恣意的解釈”をしてきたのだ。
ちょうど同時期に、世宗が作った“集賢殿(집현전)”が存在し、ハングルの創制から3年間の頒布の準備過程を“集賢殿の学者たちがその役割を務めた”と記録にあったため、「頒布の準備を学者たちと集賢殿で一緒にしてきたなら、最初につくるときも一緒にしてきただろう」と思われてきたのだ。
そうやって自然と、集賢殿の学者たちとの共同作業でつくった「共同創製説」が定説のように思われてきたんだけど、最近では世宗がたった1人でハングルをつくった「世宗のハングル単独創製説」が主流になってきている。
では一体なぜ学者たちは見解を変えたのか、詳しくみていこう。
記録で判断する
朝鮮王朝実録の記録 誤りと実際
「共同創製説」の根拠の一番大きな誤解を作った記録は、<朝鮮王朝実録>の記録だ。
王が詳細に解釈を作り、多くの人々に教えるよう命じ、
世宗実録113巻、世宗28年1446年9月29日甲午4番目の記事
集賢殿応教 崔恒、副校理 朴彭年、朴彭年、申叔舟、成三問などが
一緒にすべての解釈と凡例を作り、
これを見た者は先生がいなくても自ら学ぶことができた。
世宗大王の “指示” で、数人の “集賢殿学者たち” が<訓民正音解例本>を完成させたという内容だ。これに基づき、これまでの自然な認識ミスがあったわけだが、この<朝鮮王朝実録>の記録は、1446年に“訓民正音を頒布”した日の記録だ。文字通り、作った<訓民正音解例本>をすべての民衆に配り始めた日。
<訓民正音解例本>の作成者は実録に書いてるとおりで間違いないが、3年前に初めて<訓民正音>そのものを発表した日の記録や、頒布した日の記録にも繰り返し書かれていた、“王が自らつくった”の部分は抜け落ちて考えられてきたんだ。
“王が自らつくった”という1つ目の根拠 [ 他の記録がない ]
もし、世宗の指示で集賢殿の学者たちと共に訓民正音をつくり、このように重要で巨大な規模のプロジェクトを行っていたとすれば、<訓民正音解例本>の記録のように、<朝鮮王朝実録>はもちろん、<承政院日記>や他の記録書でもその痕跡が残っているはずだが、訓民正音については最初に発表するその日まで全く言及がなかったことに基づいている。
コラム1・2で紹介したように<朝鮮王朝実録>には王の公式的な発言と行動がすべて記録されるのが原則であるが、特に業務日誌の役割をする<承政院日記>には、ほとんど全ての業務に関する指示や会議の記録が書かれているのに、1443年に世宗が訓民正音の創製を発表するまで、訓民正音については一切記録されていないのだ。
“王が自らつくった”という2つ目の根拠 [ 作者の記録がない ]
これも「記録の朝鮮」に基づいて考えると、世宗時代に書かれたすべての書籍の著者はもちろん、新しく発明された多くの科学技術の道具や楽器まですべて、作者だけでなく、その制作に関わった人の名前も詳細に記録されているが、唯一<訓民正音>だけが例外だったのだ。
さらに、<訓民正音解例本>や世祖(世宗の次男・第7代王)時代に作られた<訓民正音言解本>に至るまで、すべて作者の記録があるという。
最初の<訓民正音>そのもののみ、「王が自らつくった」とされ、それ以外の説明がないのだ。
このように、私たちが記録にのみ100%依存して推測すると、結論は、1443年に最初の<訓民正音>の創製を発表するまで、記録もなく、唯一作者もなかったということだ。
ここまでが、最善の結論だが、「王が自らつくった」という根拠としてはちょっと物足りないようにみえる。
本当に世宗が “1人で” つくったのだろうか?
だったら世宗はなぜ1人でつくったのか?
記録はどうして全くないのか?
という質問が生じざるを得ないが、それに対する答えはむしろ近いところから見つけられる。
臣下たちの反対 ”崔万理の上訴文”
記録の順番通り、もう一回振り返ってみよう。
世宗は1443年12月30日、王が自らつくった<訓民正音>という文字があるということを臣下に発表した。臣下たちは、いきなりすぎて、“何事?”って思っただろうし、王のヒマつぶしの遊びだろうとか思ったのか、そんなに気にしてなかったようにみえる。
特に変わった反応もなく、1ヶ月が過ぎた1444年2月16日、世宗が動き始める。
世宗の先攻「私、本当に頒布するよ~」
集賢殿教理の崔恒、副教理の朴彭年、副修撰の申叔舟、李善老、李凱らに命じて諺文で
世宗実録103冊、世宗26年1444年2月16日丙申1番目の記事
<韻会>を翻訳させ、東宮(世子)と晉陽大君、李瑈、安平大君、李瑢に管掌させ、全て王の判断に稟議するようにした。
集賢殿の学者たちに、漢字辞典である<韻会玉篇>を訓民正音で翻訳することを指示し、世宗の世子たちはその業務を管理し、すべては王に直接決裁してもらいなさいという内容だ。この業務の関係者たちには補償を十分にしなさいという指示まである。 ボーナスもあげるってことだろう。
臣下たちの力攻め 世宗とのラップバトル
4日後の1444年2月20日、ハングルの誕生において1番重要な事件が起こる。
集賢殿副提学(集賢殿代表級)崔万理らが諺文(訓民正音)創製の不当さを説く。
世宗実録103冊、世宗26年1444年2月20日庚子1番目の記事
集賢殿副提学とは集賢殿の実質的な最高の首長で、現在の文化部長官に相当する人物である。 朝廷最高の学者らしく、4日間で「訓民正音を使ってはならない理由6つ」の反対論理を作ってきたのだ。
~崔万理(최만리) の上訴文要約~
まず、先代からの漢字を使わず独自的な文字を使うことは、中国に逆らうということであり、これは先祖にも恥ずかしい行為だ。
次に、自分たち独自の文字を使う蒙古、西夏、女真、日本などはみんな未開人であり、諺文を使うことは中国を捨て、自ら未開人になるということである。
それから、朝鮮語の表記は新羅時代から使っていた吏読(イド)で十分だ。
他にも、新しい文字を作ると下級官吏たちが漢字の勉強をしなくなり、そうなれば性理学の勉強も減り、性理学の普及に支障をきたす。 数十年経つと、国の人材が減ることになる。 これは結局、民衆を苦しめることになる。
さらに、王は裁判の判決の悔しさを晴らすためには、民衆に諺文で法律を知らせるべきだと主張しているが、裁判が発生する理由は、法律が漢字であるからではなく、法律を実行する官吏たちが問題だから、官吏を教育すればいい。
最後に、諺文をどうしても作りたければ、このように重要なことは王と臣下が共に話し合い深く悩んだ後に実行しなければならないが、いきなり頒布しようとするのは正しい方法ではない。
世宗が本当に<訓民正音>を頒布しようとしたところ、集賢殿20人の学者のうち代表学者7人が急いで上訴文を出したのだが、学者たちの集団知性だからか、量がとてつもなく多くて詳細だ。
上訴文はつまり、“我が集賢殿は世宗の指示を拒否する”という団体デモなのだ。
集賢殿の学者に朝廷の臣下まで反対に加勢すると、世宗の記録の中で最も激しい怒りがこの日の記録から伝わってくる。 「世宗1人 vs 臣下たちの怒りのラップバトル」
昔、吏読(イド)を作ったのは民衆を楽にしようとしたもので、今回、諺文(訓民正音)を作ったのも民衆を楽にしようとしたものだが、吏読を作った薛聰(ソルチョン)は正しくて、私は正しくないと言っているのか?
王でもない新羅の薛聰(ソルチョン)は出来て、王の私は民衆のために何も出来ないのか?
(王の権威を無視するのかと権威に訴える)
君たちは吏読(イド)だけで十分で、漢字でなければ未開だと言ったが、君たちは漢字の韻書を知っているのか?(韻書:韻を基準に漢字を分類した辞書)
君たちの中に、韻書の4声7音と字母がいくつあるのか知ってる人はいるのか? 私は知っている!
(お前たちが何を知ってるんだ?俺がお前たちより賢い! 偉そうな顔しやがって)
そして鄭昌孫(チョン·チャンソン/정창손:上訴文7人のうちの1人)!
道徳を諺文で配布しても、どうせ道徳から背く人は背くんだから、人の善悪は教育で変わらないだと?
儒教の根本が「どんなに無識で卑しくても儒教を学べば大人になる」ということだが、ソンビ(儒学者)という人々が儒教の根本も知らないの? 私たち民衆と儒教を根本的に無視するのか?
(君たちが儒教を学ぶソンビ(儒学者)なの?と皮肉ったり)
金紋(キムムン/김문:上訴文7人のうちの1人) !お前はこの前聞いた時は、諺文創製が可能だと答えたのになぜ話が違うんだ?
(昔の話をまた取り出して揚げ足取りをしたり)
私が今日、君たちを呼んだのは意見を聞こうとしたからなのに、お前たちの罪を問わないわけにはいかない!
(父親の太宗が思い浮かぶほど、恐怖政治で脅したり)
かなりの怒りが感じられるこの日の膨大な記録は結局、世宗の初の怒りで終わった。 崔万理を含む上訴文の直接参加者7人全員を監獄に入れるように指示する。
民衆の品格を見下し、儒教の根本を無視した鄭昌孫は儒学者の資格がないとし、直ちに罷職。王に意見を変えた金紋は、鞫問(重罪人を拷問して尋問すること)を指示。
独断的に見えたこの日の姿は、世宗の記録の中で最も“世宗らしくない”姿だった。
世宗は、明け方から始まる経筵を通じて、何時間も臣下との討論を楽しみ、在任中1,898回の経筵を行い、その回数自体が多すぎて臣下たちが苦しんでいたという記録があるほど、臣下たちとの討議を楽しみ、説得に生きてきた世宗だったから、今回だけは必ず必要なことだと思ったのか、今まで見せなかったあらゆる手段を使い、臣下の反対を押し切って<訓民正音>の頒布を進めた。
世宗の怒りから恐怖まで感じられる行動に、父・太宗李芳遠のカリスマが浮び上がったのか、それ以降、臣下たちの反対の姿は見当たらない。恐ろしい家の血統だってことを、臣下たちが今まで忘れていたんだろう。
このように漢字辞典である<韻会玉篇>のハングル翻訳本は作られ、<訓民正音>の専門機関である諺文廳が設置され、ハングルガイドブック<訓民正音解例本>の制作とともに、世宗28年の1446年9月、<訓民正音>は頒布された。 最初の発表から3年でやっと実現した “ハングルの完全な誕生”。
記録と著者がない理由
崔万理の上訴文事件で私たちが知れるのは、朝廷の臣下たちはもちろん、集賢殿副提学の崔万理と代表学者たちでさえ<訓民正音>の存在自体を知らなかったということだ。
「臣下たちと相談もなく進めてはいけない」
「急にこのように諺文をつくろうとしてはいけない」
新しい文字をつくることは簡単なことではないし、少なくとも数年はかかることだと思うが、私たちの勘違いのように集賢殿の学者たちと共同でつくったなら、その準備過程と、長い間誰も知らないというのは不可能だということだ。
つまり、「1人でつくったのだから他の人は知らなかったし、指示したことがないから記録がない」。「記録」を「記録」だけに合わせて考えれば、あらゆる状況は当てはまるわけだ。
ここまでの追跡を記録通りにまとめてみよう。
1443年、最初の<訓民正音>の創製を発表するまで、記録もなく、唯一著者もいない
1443年、<訓民正音>の創製を発表した際、<訓民正音>を事前に知っていた臣下はいなかった
1444年、崔万理上訴文事件まで世宗と臣下たちは、どんな討議もしたことがない
1444年、崔万理上訴文事件の時、全ての臣下たちは反対した。
1444年、崔万理上訴文事件の時、集賢殿副提学や集賢殿の学者たちが反対した
1444年、崔万理上訴文事件の時、臣下と世宗は物凄い討論バトルをした
1444年、崔万理上訴文事件の時、世宗は強い意志で臣下の反対を押しのけた
王の名前はむやみに書かなかった当時の礼法まで考えると、“王が自らつくった”と書かれているが、著者の名前がなかった理由までも全て説明できる。
このように“王が自らつくった”という根拠に近づいてきたが、それでは、なぜあえて王が1人でつくらなければならなかったのか?何の理由で、記録もなしに臣下たちも知らないうちにつくらなければならなかったのだろうか?
なぜ反対したのか?
朝鮮の世界観 中国と事大主義
崔万理の上訴文のうち、最初の反対理由は中国だ。 最も重要な理由だということだ。
朝鮮半島の他の国にとっても中国の存在は重要であったが、特に朝鮮の場合、太祖·李成桂(テジョ イソンゲ/태조 이성계)が “性理学と儒教” に基づいた国家を樹立したため、性理学と儒教の “元祖” である中国とは密接にならざるを得なかった。
大国に仕えることを “事大”、“事大主義”と言うが、中国を中心とした当時の時代の秩序を考えれば当然のことで、朝鮮は儒教が生まれた中国との事大関係を守らなければならないと主張する価値観は自然なことであった。
そんな中国の象徴は「漢字」で、その「漢字」を通じてお互いに結束していたのに、それを自ら捨てて独自の道を行くということは、国家の根幹を揺るがすとてつもない波紋であり冒険だった。
臣下たちの主張も理解はできる。千年以上使ってきた漢字を捨てて、急に固有文字を持つことは中国文化から遠ざかるという不安感を与えそう…。中国に反対するというイメージも生まれそうだし…。
そう。でも世宗は「漢字」を捨てると言ったことはないよ。漢字を知らない一般民のために「ハングル」をつくってあげて、漢字はずっと使うと言ったから。
だったら、臣下たちの論理はおかしくない? 何でそんなに反対したの?
それで臣下たちは追加の理由として「ハングル」を使えば性理学も儒教もすべて崩れると主張したんだよ。反対した“本当の理由”をみてみよう。
漢字の意味と価値
1444年2月、崔万理上訴文事件の世宗の激怒以後、朝廷内からの激しい反対は消えたが、噂は馬より早く、朝鮮では新しい文字の創製ニュースが広まり、結局、多くの朝鮮の儒学者と学者たちもこれを知ることになった。
彼らは毎日のように上訴文をあげたり、王のいる漢陽(現ソウル)に上京し、団体で反対デモをしたりしたが、彼らがこれほど激しく反対した本当の理由を考えると、意外に簡単だと思う。
「既得権」
儒学者たちは、中国との事大関係が崩れることを真っ先に心配したが、「ハングル」の使用による性理学と儒教が揺れることを強く主張した。「漢字」を使わないと性理学の勉強をしなくなり学問が崩れるという論理。
この主張の中に彼らの目標が含まれていると思う。
「漢字」を使わなければ “未開人” で “未開国” だ。
当時、学者や儒学者(ソンビ)などの知識層にとって、文字と学問は自分たちだけの特権だという認識があった。「自分たちと庶民は階級が違う」、「文字は誰でも学べない」という考えを基盤にした知識層は、世宗が新しい文字を作ってしまうとその特権がなくなるのではないかと心配したのだ。
しかも、新しい文字は「誰でも簡単に学べる」ということを売りにしているので、多くの民衆が文字を知るようになれば、これまで享受した学問的権威と権力が低下し、賢くなった民衆を簡単に扱いにくくなることを恐れていたのだ。
漢字を知っている人だけの “既得権” を維持するために、無知な民衆たちは無知の状態でいつづけることを願ったのだ。
このような臣下たちの反発を事前に予想していたため、世宗はやむを得ない選択をしたのだ。もし事前にこの事実が知られていたら、臣下たちは中国の力を借りてでも、もっと激しく反対しただろうし、数年にわたって論争だけして何も進められなかったはずだから。
「一人で秘密裏に作って素早く頒布を進める」
世宗には他の選択肢がなかったんだよ。
それでも討論が好きだった世宗なのに、臣下たちを不信しすぎたんじゃないかな。臣下たちが賛成して手伝ってあげることもできるだろうし…。
そう思うかもしれないけど、実は世宗が<訓民正音>を数年間で急に作ったわけじゃないよ。もうずいぶん前から臣下たちと討論をしてきて、臣下たちと話しても、らちが明かないないことに気づいていたの。
世宗が臣下たちの反対を予想した理由を調べてみよう。
民を教える正しい音
訓民正音の目標 世宗の真心
世宗が現在の「ハングル」をつくり、名付けた公式名称は「訓民正音」
その意味は「民を教える正しい音」
この名前自体に、世宗の民衆を愛する心と目標が込められている。
世宗は福祉政策だけでなく、民衆の生業である農業の活性化のため、<農業直説>という営農指針書を発刊し、降水量の統計を測定して農業時期の調節に役立つ「測雨器」を作るほど、民衆を心から愛してきた王だった。
そのような世宗が大きな衝撃を受けた出来事が、1428年9月に起きた「金禾殺夫事件(김화살부사건)」と呼ばれる事件だ。
実録によると、晋州で金禾という人が自分の父を殺すという、前代未聞の破倫犯罪事件の報告を受けた世宗は驚き、「妻が夫を殺して種の主を殺すことはたまにあることだが、自分の父を殺した者がいるのか」と、「私が徳がない理由だ」とかなり自責したという。
この事件の衝撃が大きかったからか、世宗は朝鮮と中国の書籍で模範になる忠臣・孝行・烈女の行動を集めて本を作ることを指示し、世宗16年1434年に編纂された<三綱行実図>がその本だ。
この本の特徴は、世宗の命令に従い、漢字を知らない民衆にも理解しやすいように、絵が多く盛り込まれた本だということだが、私たちが注目すべき点は、完成した<三綱行実図>の頒布を指示しながら世宗が放った言葉だ。絵が追加されても、依然として民主は漢字が分からないことを心配する発言。
民衆に分かりやすいように絵を追加してはいるが、
世宗実録64巻、世宗16年1434年4月27日の甲戌2番目の記事
本を配っても文字が分からないので
他人が教えてくれなければその意味を
どうやって知ることができるのだろうか。
その2年前の1432年には、法律を知らない民のために、大きな犯罪名だけでも吏読(イド)で訳して頒布するよう指示したほど、世宗は民衆が文字が分からなくて困っていることをずっと心配していたのだ。
民のために様々な本を編纂しても、結局は「漢字」による障壁を越えることは出来なかった。 漢字の音を利用して表記する「吏読」や「郷札」で翻訳しても、その基本は漢字なので、一般の民衆には高嶺の花だったのだ。
世宗はこのような現実を非常によく知っていたため、昔から朝鮮語に合った文字を開発しようとしていたのは確かで、新しい文字の名前である「訓民正音」から「世宗の真心」を感じることができる。
この状況を記録のみに基づいて整理してみると、世宗は絵や吏読を利用した書籍を配布するほど、文字を知らない民衆を心配してきたし、絵と吏読の明確な限界もよく知っていたので、新しい文字の必要性はかなり前からもたらされていたことを確認することができる。
では、“なぜ一人で?”と、“いつ作ったの?”をくわしくみてみよう。
臣下たちの葛藤 反対のための反対
前述したように、世宗は1432年11月7日、律文(法律)を吏読で訳して頒布するよう指示した。
理を学んだ者も、法典を見なければ罪の軽重を知ることが出来ないが、
世宗実録58巻、世宗14年1432年11月7日壬戌1番目の記事
民は罪の軽重を知らないため、自ら改めることができない。
民に大きな罪名だけでも教えて、犯罪を避けれるようにしなさい。
世宗は民衆が法を知ってこそ犯罪を防ぐことができると言ったが、臣下たちはこれも様々な理由を挙げて反対した。
民衆が法を知ってしまえば、罪の大きさによって小さな罪は堂々と犯す弊害が生じ、大罪の場合は法を避けるための悪だくみに使うことができるという主張だった。
法が分かればむしろ犯罪者になるという臣下たちのこの論理はつまり、自分たちだけが法を知って執行できる特権を手放したくなかったからだろう。
それでも世宗は、法を知らない人に法を理由に処罰することの不当さや、彼らに無念さが生じる恐れがあるので、民衆は法を知り、気をつけたほうがよりよいとして、民衆への配布を指示した。
しかし1年後の1433年7月、ヤクノ(약노)という名前の女性が「呪いの呪文を唱えて人を殺害したので死刑にすべきだ」という要請があり、世宗はこの事件の再調査を命令する。
谷山に住む良民女子ヤクノの殺人罪を再調査して処理するよう指示する
世宗実録61巻、世宗15年1433年7月19日庚午2番目の記事
再調査の結果、強圧的な捜査によって無理やり自白を強要されたことが明らかになり、死刑は無効となったが、法を執行する官吏に対する世宗の不信は大きくならざるを得なかった。
その後、世宗は「儒学」も吏読に訳して民衆に教えようと提案したが、民衆に儒学を教えても効果がないという臣下たちの反対で諦めたことがある。
このような過程で、世宗は臣下たちとの「文字」に対する認識の違いを確認するしかなく、漢字の壁より大きく高い “既得権勢力の障壁” から脱するため、臣下たちを計画から除外しなければならなかったのだ。
そうして世宗は “孤独な戦い” を始めたのだ。
世宗大王は様々な努力をしてきたんだね。 いくらなんでも呪いをかけて殺人をしたっていうのは役人たちがひどすぎ!
死刑になる罪人たちは、王が直接許可をしなければならないから、事前に知ることができたというから幸い。「父殺害事件(金禾殺夫事件)」もそれで世宗が知ることになったし。
いつつくられたのか? 世宗の日課表
上記の表は “暴君になっても理解できる”といわれる朝鮮時代の王の日課表だ。
午前5時頃に起床し、王室の大人たちに挨拶をするのを皮切りに、計3回の食事と2回のおやつ、3回の勉強時間と、午前と午後の2回の業務、夕方の挨拶までを1日で処理しなければならない日程。
王の就寝時間は午後11時で、王は1日約6時間ほど就寝していたというが、このような日程を消化するために、時間内に処理できる業務能力と肉体的健康が必須だったというから、あの時代の王たちがほとんど短命だった理由が分かるだろう。
その中でも世宗は、本を読むことと臣下たちとの経筵が異常に好きで、他の王より長く業務をしたというから世宗も短命になるしかない運命だったのだろう。
このようなハードな日課の中で、世宗はどのように文字をつくることができたのだろうか? 文字を1人でつくることが可能なのだろうか?
世宗が本当の訓民正音を「1人で」、「臣下たちに内緒で」つくったとしたら、世宗に最も必要なことは、
「時間」
その時間について類推できるような特異点が実録に記録されている。
議政府(의정부)と六曹(육조)の関係を整備するよう教書を下す。
世宗実録72冊、世宗18年1436年4月12日戌辰2番目の記事
1436年4月、世宗は政府の業務システムを既存の六曹直啓制(6조직계제)から議政府署事制(의정부서사제)に変えることを指示した。
世宗の父・太宗が施行した六曹直啓制は「6つの部署」において大政丞がいる「議政府」を経ずに「王に直接報告するシステム」であったが、これは議政府の「政丞たちが業務を処理」する祖父·太祖の時の議政府署事制として再び復元させたものである。
要するに、王の「直接決裁」を受けていたシステムから、大臣や総理の役割の大政丞たちが「代理決裁」をする間接決裁システムに変えたのだ。王の業務量において大きな差が生じたんだよ。
もちろん、民を大切にする気持ちは相変わらずだったので、国防と死刑囚の問題だけは王の許可を受けるよう指示した。 それでも王の絶対的な権限がむしろ減るこの方式を、なぜあえてこの時期に施行したのか。 そんなことを考える前に、それでも足りなかったのか、世宗は翌年の1437年にはさらに破格な決定を下す。
王に残っている「重要庶務の決裁権を世子・文宗に与える」という宣言。
残念ながらこの決定は臣下の反対で実行には至らなかったが、世宗は何かに追われるように、個人の時間を確保するために急いでいたことだけは確かなようにみえる。
このように確保した時間で、世宗が何をしていたのかについて類推できる記録がある。
3年後の1440年6月の記録。
経筵場所に保管されている「国語」と「音義」の書籍が抜けているところが多く、中国から本を探してきたが、内容や説明が不足している。 日本で補音本を含めて3冊を探してきたが、これも完全なものではないので、集賢殿は古い本を基準に、全ての本を比較・修正し、足りない部分は韻書で補うように要求する。
世宗実録89巻、世宗22年1440年6月26日丙申2番目の記事
「図書館にある文字と言語学の本を読んでいたら、足りない部分が多いから、中国と日本で本を探してきたんだけど、本ごとに足りない部分が違うから、総合して整理しろ」ということだ。
これはつまり、その本を全て読んだということで、臣下たちは知らなかった内容の不足と間違いを見つけ、それぞれの本を比較分析までしたということだが、「なぜ?」「敢えて?」「王が?」「直接?」「よりによって言語学?」関連の本をここまで一生懸命掘り下げたのか疑問を抱かざるを得なかったのだ。
当時の時代を考えると、1冊の本を外国から手に入れるだけでも数ヶ月以上はかかっただろうし、海を渡って日本にまで本を手に入れるほど “熱心” だったということだが、私たちが考えているその理由で結論がまとまるのだ。
こ:;(∩´﹏`∩);:臣下たちは知らない間違いを発見するほど、世宗は言語学について相当な知識を持っていた
その後に起こる崔万理上訴文事件の時、「韻書の字母がいくつなのか知ってるのか?!」と叫んだ自信の根源が分かるのだ。
整理してみると、「両親殺害事件」や「呪い殺人事件」などを経て世宗の決意が固まり、臣下たちの詭弁の中でこの時期から本格的に動いたようである。
それでも新しい文字をつくることは簡単ではないはずだが、本当にこの全てを1人で出来たのだろうか?
天才少年 李祹 「私は世宗だ!」
世宗は太宗・李芳遠の6男。上の3人の兄が幼くして亡くなったから、事実上は3男となる。
通常は王の番が来ない位置だったにもかかわらず、彼が2人の兄を抜いて王世子になったということだけでも、李祹(世宗)の能力を知ることができるのだ。
幼い頃から分野を問わず本を読むのが好きな読書マニアとして知られており、そんな息子があまりにも健気で全面的に支援した父・太宗が、後に息子の健康を心配し、全ての本を片付けろと指示した記録がある。全ての本を片付けて1冊だけ残したら、その本を100回以上読み終えたという執着の持ち主の李祹。
王になっても多方面に優れた能力を披露したが、臣下を最も驚かせた事件は「編磬(ピョンギョン/편경)の間違い指摘事件」だ。世宗は音楽の最高権威者の朴堧(パクエン/박연)に、中国から輸入した宮廷楽器「編磬」の国産化を指示したが、1433年1月1日の新年を記念した初の試演会の席で起こった出来事。
音がとてもきれいで(中略)私はとても嬉しい。
ただし、夷則1枚の音がやや高いのはなぜか。朴堧が問題の軽石を調べて答えるに、
世宗実録59巻、世宗15年1433年1月1日乙卯3番目の記事
書いた墨の跡がまだ残っているので
石をすべて削っていないのです。
編磬は大理石をやすりにかけて、その石の厚さによって違う音を出す楽器だが、石1つを製作するとき、ラインを引いた筆の跡ほど、削られていないのが発見されたという話だ。
当時使用された墨縄の厚さは約0.5mmだという。この程度の厚さの差によって出る音の差は、1つの音の20分の1程度。
楽器の製作者も演奏者も分からなかったことを、音だけ聞いてすぐ当てたのだ。
「絶対音感」
幼い頃は兄さんたちに笛とコムンゴ(琴)を教えたりした程だが、これくらいでびっくりしていたら世宗“大王”ではないでしょう?
世宗の業績には、様々な楽器を開発し、宮廷音楽と郷楽を整理することで朝鮮音楽の体系を整えたとあるが、最も重要な宮廷行事に使われる「宗廟祭礼楽」に使われる音楽のうち、与民楽(여민락)・定大業(정대업)・保太平(보태평)と呼ばれる様々な曲を自ら作曲した。
また、このような音楽作業のために、東洋初の現代式五線紙と呼ばれる「井間譜(정간보)」という楽譜体系を創案した人物が世宗だ。この程度の能力があってこそ “大王”になれるのだ。
先祖を称える祭祀に使われる「宗廟祭礼楽」を整理する過程でも、世宗の合理的な姿と臣下の事大主義が現れている。
我が国では郷楽に慣れ親しんでいるが、
世宗実録49冊、世宗12年1430年9月11日己酉1番目の記事
宗廟の祭祀では中国の雅楽を先に演奏し、
最後の部分でしばらく郷楽が演奏されている。
先祖が普段聴いていた郷楽を演奏するのはどうか。
中国の立場では普段聞いていた音楽を雅楽にしたのは当然だが、なぜ我々は死ぬと普段聞いていた郷楽の代わりに中国の雅楽を聴かなければならないのかに対する問題提起で、音楽の最高権威者だった朴堧と臣下が伝統に従い、雅楽を使わなければならないと強く反対したのだ。
「伝統」と呼ばれる従来の慣習と「事大」は、文字創製についてだけ抵抗を受けたのではないのだ。
このような過程を繰り返しながら、世宗は臣下の反対を予想していたのだ。
結局、臨時の調律で後半の部分だけ郷楽を演奏したため、世宗は自分が作曲した曲を実際に使うことが出来ずに亡くなり、30年余り後に、彼の息子である世祖が父の音楽を整理して使い始めたことが今まで伝えられている。
「宗廟祭礼」と「宗廟祭礼楽」は2008年、ユネスコ人類無形文化遺産に登録され、毎年5月と11月、ソウルの宗廟で年2回再現公演があるので、機会があれば参観することをおすすめする。 宗廟の正殿も写真映えも間違いなし。
世宗の優れた才能は音楽の他にも「日時計(해시계)」や「渾天儀(혼천의:天文観測機具)」など、 制作当時の記録を見ると、天文学や数学にも秀でたと表現され、文学・歴史などの人文学分野においては臣下たちを驚かせるほどだった。
特に、世宗時代には様々な本を編纂したが、臣下が持ってきた本の間違いや誤字を発見し、活字の製作方式の問題点まで指摘するほど、出版においてもかなりの能力者だったという。
そんな世宗が文字と活字について、他の業務を差し置いて、1人で新しい文字をつくったとしても、今では自然なことなのだ。すでに何度も出てきたように、韻書や言語学に関する相当な知識があったと思われるから。
結局、凡人たちは天才に気づかないという言葉のように、今の時代の基準だけで判断しようとして、一般人の目だけでみては、世宗の偉大さについて、正しい評価が出来なかったのではないかと思う。
天才少年“李祹”は、そうして世宗“大王”となり、
彼は自分のすべての能力を盛り込んだ新しい文字をつくったんだ。
1人は寂しい 訓民正音の創製と頒布
世宗は1430年代初めから準備し、1430年代半ばからは本格的に新しい文字の創製作業に没頭したようにみえるが、彼がいくら天才であっても、そのとてつもない作業を “1人で”、”何の助けもなく” することはできないと見るのが正しいだろう。
「世宗のハングル単独創製説」を主張する学者も、これ自体は否定はしていない。
臣下の反対を予想し、政局の混乱と消耗的な論争を避けるために孤独な道を選んだ世宗は、情況上、主に自分の子である首陽大君(スヤンデグン/수양대군)と安平大君(アンピョンデグン/ 안평대군)、そして貞懿公主(チョンウィコンジュ/정의공주)の助けを受けたようだ。
もちろん、この誤解の原因は「秘密作業」だったため<朝鮮王朝実録>には記録がないが、貞懿公主が嫁に行った安氏家の系図にはこのような記録がある。
世宗が朝鮮語と漢字が互いに通じなかったため訓民正音を創製する際
竹山安氏大同宝 系図 中
「変音と吐着」に関する研究を終わらせることができず
大君(息子)たちに指示したが解決できなかったため
世宗が公主(娘)に命じて変音と土着を解決するようにさせた。
ここに登場する変音と吐着については意見がまちまちだが、変音は「音の変化の原理」と「発音を出す原理」、土着は注釈のような説明を付けるものとみている。音の変化によって助詞を使用する方法や発音に関する解説程度の意味で理解すると良いだろう。
これを根拠に、世宗の次女である貞懿公主、または信眉大師(신미대사)という僧侶が主導的にハングルを創製したという小説と映画が数年前に公開され大きな論争があったが、正史の記録ではない一家族の系図に含まれた内容である点と、追加された内容も当時の正史の記録と実情に合わない点が多く、論破された。
代わりに、1443年に最初の<訓民正音>が発表された後、頒布の準備過程で2人の大君(息子)と貞懿公主(娘)、集賢殿の若い学者に<訓民正音解例本>を準備させた点、頒布以降も、様々な種類のハングル書籍編纂作業に世宗の子どもたちとこの学者たちが主導的に参加した記録を考えると、貞懿公主の記録から、その空いていた時間のヒントは明らかに得られる。
「助っ人」
“子どもたちの言葉や田舎の方言まですべて表現させた”という<訓民正音解例本>の説明のように、数多くの調査と作業量を考えると、世宗の子どもたちが少なからぬ役割を果たしたことは確かだ。
当然だが、誰かの助けを受けたからといってハングルに対する世宗の努力や能力が劣ることは全くないと思う。
笛を吹く楽工を呼んで口腔構造と口の音の出し方について研究し、医院を呼んで解剖学の人体構造を学んだという世宗の新しい文字に対する「真心」は何よりも偉大な精神だから。
“伝統”と“既得権”を維持しようとする臣下の目を盗んで、かなり長い時間をかけて民衆の心を推し量ろうとした世宗の<訓民正音>は、
世宗28年1446年9月29日ついに頒布された。
訓民正音の頒布式を祝う行事には、集賢殿の学士のうち半分以上が参加できなかったが、多くは殺人的な過重な業務と王の要求事項に苦しめられ、病床についたためだという。
世宗大王のキャッチフレーズだった“臣下が辛くてこそ民衆が安らかになる”が完成した瞬間だろう。
2ヵ月後の世宗28年1446年11月には「諺文庁(언문청)」を設置し、本格的に訓民正音の普及と管理を始め、12月には下級官吏の採用から訓民正音を取り入れ、翌年2月には先王の話を盛り込んだ<龍飛御天歌>を訓民正音として編纂し、4月からは各種官吏の採用時に訓民正音の活用拡大をはじめ、様々な書籍を刊行して普及に拍車をかける。
このような頒布過程の一糸乱れぬスピードをみると、創製過程での秘密の作業のスピードが遅くならざるを得なかった理由は明確だ。創製の過程では臣下と多くの人員を動員できなかったという意味だからだ。
「賢い人は朝を終える前に、愚かな人も10日で学ぶことができる」という<訓民正音解例本>の説明のように、“我々の言葉” と一致する “我々の文字” は、民衆に素早く広がっていったことを、世宗31年1449年10月の記録から見て取ることができる。
ある人が諺文(訓民正音)をもって壁の上に書くに
世宗実録126巻、世宗31年1449年10月5日付の壬子1番目の記事
「河政丞よ、公事を馬鹿にするな」と言った。
漢陽で発見された諺文(訓民正音)で書かれた張り紙に、不正を犯す河政丞(ハジョンスン)という官吏に、仕事をしっかりしろと民衆が批判する内容があったという報告を受けた時、世宗は民衆がついに自分の考えを思う存分繰り広げられることに、喜びの涙を流したのではないだろうか。
朝鮮語は中国語と違って漢字では通じない。
こんな理由で愚かな民が言いたいことがあっても
自分の意思を表現できない人が多い。
私がこれを可哀想に思って新たに28文字を作った。
全ての人が簡単に習って使えるように楽にしようと思う。
(゜-゜)
韓国人なら国語の授業に欠かせないので、誰もが覚えている「나랏말이 중국과 달라 서로 통하지 않는다~(朝鮮語が中国と違って互いに通じない~)」で始まる<訓民正音解例本>の序文に込められた世宗大王の真心。その心が日の目を見始めた瞬間ではないかと思う。
これまで「私が28文字をつくった」を記録に従って追跡してきたが、
今になって気づく「私がこれを哀れんで」に込められた世宗大王の愛。
1997年に<訓民正音>はユネスコの世界記録遺産に登録され、世宗大王の精神を受け継いでいくためにユネスコでは1990年から毎年9月に「識字」に努力した団体と人のために「世宗大王賞」を授与している。 “King Sejong Literacy Prize.”
史官・閔麟生の人生と太宗の逸話から始まり、歴史を記録する方法と活用、それを正しく解釈することに対して調べるためにここまでやってきたが、歴史の記録と解釈は“分析”ではなく、それに込められた祖先の精神を学び、受け継いでいくことに本当の価値があるのではないかと思う。
朝鮮の民衆を超えて、民族と言語は違っても、世宗大王の精神が末永く記憶されることを願って締めくくる文章。
「殿下創制」
必須★おすすめドラマ
ここまで読んでくれてありがとう!
最後に世宗がハングルをつくるまでの話を扱ったドラマを紹介するよ!
絶対にオススメ!必須!
そのドラマのタイトルは… この1万ウォン札の中に隠れているよ。
答えは『根の深い木(뿌리깊은 나무)』(2011)。
今回のコラムと合わせて一緒に観ることをオススメするよ!
”根の深い木(뿌리깊은 나무)”というのはハングルで最初に作られた本<龍飛御天歌(용비어천가)>のキーワードの単語だよ。
『根の深い木(뿌리깊은 나무)』SBS放送局の公式ホームページ → ★